第3章 YouTuberとしての本格的始動
【異邦人の帰還】
大阪の喧騒の中、還暦を過ぎた伊崎進は、今も公務員試験予備校の教壇に立っていた。
プレゼンターを巧みに操り、画面の向こうの受講生たちへ熱い講義を届ける日々。
しかし、彼の本当の「主戦場」は、もはや教卓の上だけではなかった。
京都市郊外のアパートの一室。
ホワイトボードの前で、進は左手に犬のパペット「タロ」をはめ、発声練習をするように大きく息を吸い込んだ。
「カメラの準備はいいかい?」
「はい進君!準備はバッチリよ! いつでも撮れるわ!」
カメラのファインダーを覗き込んでいるのは、妻の美智子だ。
かつて定時制高校の廊下で言葉を交わしたあの日の少女。
進の最大の理解者であり、この小さなスタジオの唯一の撮影スタッフだ。
気がつけば、美智子が進の伴侶となってから、もう三十年以上の月日が流れていた。
最初は、まったく再生数が伸びなかった。
1回、5回、10回――。
画面に向かってタロを動かしても、虚しく言葉を投げかけているような孤独感が進を襲った。
「今日も再生数は『12回』だ。やはり、僕たちのやり方は間違っているのだろうか」
夜、不安そうにパソコンを見つめる進の横で、美智子が温かいお茶を差し出した。
「なーに言ってるの、進君!12人もの人が、進君とタロちゃんのお話を聞いてくれたのよ!教室で言ったら12人の生徒さんじゃない!一人ひとりにしっかり内容が届いてるんだから、絶対に諦めちゃダメ!」
「……そうだな。たった一人でも届くなら、僕は語り続けるよ」
美智子の全肯定の言葉に支えられ、愚直に動画を投稿し続けて半年が経った頃、奇跡が起きる。
現職の若手市役所職員がSNSで「この『タロの法律超訳』動画は、疲れているときに見ても、ちゃんと分かりすぎて泣ける」と拡散したのだ。
そこからの快進撃は凄まじかった。
民法、行政法、憲法、そして地方自治法から最新の時事問題まで。
難しい法律の条文や複雑な世界情勢が、進の緻密な脚本と、タロのユーモラスで愛くるしい掛け合いによって、血の通った「生きるための知恵」へと劇的に姿を変えていく。
「ワン! タロだよ! 今日はみんなが苦しむ『行政手続法』を、超わかりやすく解説するワン!」
「タロ、理由を丸暗記しようとするからパニックになるんだ。行政が勝手なことをしないための『お約束』だと考えれば、分かりやすいよ」
コメント欄には全国の公務員や受験生からの悲鳴と感謝が殺到した。
『現場で心が折れかけていましたが、タロちゃんの声で救われました』
『丸暗記のお経だった法律が、初めて生きた言葉に見えました!』
進はかつて、大阪の定時制高校に通った。
中学ではそこそこできた勉強も、定時制に通ううちに学力が落ち、一時は偏差値32にまで暴落した。
しかしそこから独学で61にまで叩き上げ、大学へ進んだ。
その後も司法試験の挫折、予備校の倒産、専門コマ数の削減、副業の地獄、そして発達障害と適応障害の苦悩――。
数々の不条理を泥を啜るようにして乗り越えてきた男の言葉には、エリート講師には決して真似できない、圧倒的なリアリティと説得力が宿っていた。
【 黄金色の夕映え】
「はい! カット! 進君、今日のタロちゃんも完璧だったわ!」
美智子がカメラの録画ボタンを押し、ハキハキとした弾んだ声で拍手を送った。
撮影が終わり、美智子が淹れてくれた温かいお茶を二人で啜る。
窓の外には、京都の街並みを黄金色に染め上げる美しい夕映えが広がっていた。
進はかつて、高速バスの窓から不安に震えながら夜の街の光を見つめていた。
だが、今目の前に開ける風景は、二人の未来を優しく照らす、穏やかで心地良い光だった。
「ねぇ、次の動画のテーマは『連帯保証の恐ろしさ』にする?」
湯呑みを両手で包みながら、美智子が訊ねた。進は深く頷いた。
「あぁ。タロにこっぴどく叱られる役をやってもらおう。連帯保証人のハンコ一つで人生が狂ってしまう悲劇は、もう僕たちの周りで起きてほしくないからね」
「そうね……鹿沢さんみたいなお苦しみを、他の誰かが味わっちゃダメだものね」
かつて連帯保証人の罠にハマり、過酷な借金地獄に苦しんだ鹿沢慎之助。
その鹿沢は、昨日、久しぶりに進たちの住む京都へ遊びに来たばかりだった。
八十を過ぎた今も驚くほど元気で、借金の呪縛から解放された今は、満面の笑みで進と美智子のYouTube動画を「タロちゃんの大ファンだ」と喜んで観てくれていた。
進は手からタロを外し、静かにデスクへ置くと、隣に座る美智子の小さく節くれ立った手を優しく包み込んだ。
二人の手は、三十年以上にわたる貧困と労働、そして幾多の苦難を一緒に乗り越えてきた、誇り高き証だった。
「『栴檀は双葉より芳しからず』……か」
進がふと、愛おしそうに呟いた。
「進君……その言葉、また言ってる」
美智子が少し首をかしげると、進は美智子の目を真っ直ぐに見つめ、ハキハキと、しかし噛み締めるように言った。
「『栴檀』はね、若い芽の時は香らないんだよ。双葉の時に香らなくても、いつか自分だけの花を咲かせることができる。僕がこの人生で証明したかったのは、ただそれだけだったのかもしれないな」
美智子の大きな瞳に、温かい涙がじんわりと浮かんだ。
「うん……! 進君はね、最初から咲いてたのよ。私にとっては、出会った時からずっと世界一のお花だったんだから!」
「ありがとう、美智子さん。さあ、明日へ向けて、新しい動画の脚本を練るとしようか」
「はい! 私、ノート準備するわね!」
夕闇が迫るおだやかな部屋で、二人は寄り添いながら、明日画面の向こうで待つ悩める人々へ届ける「希望の言葉」を紡ぎ始めた。
かつて誰からも理解されず、社会の片隅で傷ついていた「孤独な異邦人」だった少年は、今、最愛の妻とともに自らの「居場所」をその手で作り上げ、暗闇で迷う誰かの道を照らす、かけがえのない「光」となっていたのだった。




