エピローグ 三十年越しの結婚指輪
【還暦の誓い】
時の流れは早いものだ。
美智子が昨年、そして進が今年、無事に還暦という大きな人生の節目を迎えた。
世の中の情勢は目まぐるしく変化していた。
トランプ関税やイラン情勢など、世界情勢の不透明感や不景気の影が落とす不安。
若者たちの間では「安定」を求める声が再び高まり、公務員試験の人気はかつての勢いを取り戻しつつあった。
それに伴い、進と美智子のYouTubeチャンネル『タロの法律超訳』の勢いは、さらに加速していった。
登録者数は数万、数十万と跳ね上がり、今や受験生だけでなく、現職の公務員、さらには法学部で悩む大学生や一般の社会人にまで広く愛される人気チャンネルとなっていた。
ある週末の夕方。
大阪の予備校での講義を終えた進は、いつもと違う足取りで京都の自宅へと向かっていた。
胸のポケットには、小さなベルベットの箱がしっかりと収まっている。
玄関を開けると、出迎えた美智子がハキハキとした笑顔を咲かせた。
「お帰りなさい、進君! 今日もお疲れ様! お夕飯の段取り、バッチリできてるわよ!」
「ただいま、美智子さん。……実はね、今日は君に見せたいものがあるんだ」
進は居間のテーブルにつくと、少し緊張した面持ちで胸ポケットからその小さな箱を取り出し、美智子の前にそっと置いた。
「これ……開けてみてくれるかい?」
「あら? なにかしら、進君」
美智子は不思議そうに首をかしげながら、丁寧にリボンをほどき、箱のフタを開けた。
夕暮れの光を受けて、中に収められた指輪のダイヤモンドが、眩いばかりの煌めきを放った。
「まぁ……! きれい……!」
美智子が息をのむ。進は美智子の目を真っ直ぐに見つめ、少し声を震わせながら語りかけた。
「覚えていてくれたかい? 昔……僕たちが結婚したばかりの頃、貧しくて、まともな指輪一つ買ってあげられなかった。あの時僕は『いつか必ず、本物の綺麗な指輪をプレゼントするからね』と約束した」
進の脳裏に、かつて極貧の中で身を寄せ合い、安いおにぎりを分け合っていた若い頃の二人の姿が蘇る。
「あれから三十年以上の月日が流れてしまった。貧困、適応障害、様々な遠回りをして、君には苦労ばかりかけてしまったけれど……今年、僕も還暦を迎えた。今度こそ、僕の感謝の気持ちとして、この指輪を受け取ってほしいんだ」
進のハキハキとした、しかし温かな言葉に、美智子の大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。美智子は指輪を見つめ、それから愛おしそうに進の手を両手で包み込んだ。
「進君……ありがとう。とっても、とっても嬉しいわ……!」
「でも…これ、高かったんでしょ?」
進は、笑って答える。
「隠しててごめん。ヘソクリを投資信託に入れて、その利益で買ったんだよ。そんなに凄い高価なものじゃない。でも、今までの中では一番高価なものだよ」
美智子は溢れる涙を拭いもせず、満面の笑顔を進に向けた。
「本当にありがとう。でもね、進君。私はね、この指輪が嬉しいのはもちろんなんだけど……何よりも、進君が昔の小さな約束をずっと心に抱きしめていてくれたことが、一番嬉しいの」
美智子は輝く指輪をそっと指にはめ、愛おしそうに眺めたあと、進の目をじっと見つめた。
「私ね、いま、本当に幸せなのよ。毎日、進君と一緒にハキハキお仕事をして、タロちゃんの動画を撮って、夜には美味しいお茶を二人で飲む……。昔のお苦しい日々があったからこそ、この何気ない毎日がどれほど宝物か、私にはよく分かるの」
「美智子さん……」
「だからね、高価な指輪がなくても、私の幸せはもうとっくにここにあったのよ。進君が私のお隣にいてくれること、それが私の最高のおプレゼントなんだから!」
美智子の真っ直ぐで温かな言葉が、進の胸の奥深くにじんと染み渡っていった。
言葉の棘に傷つき、孤独の闇を彷徨っていた少年に、これほどの救いと温もりを与えてくれた存在。
「ありがとう、美智子さん。……僕の方こそ、君がいてくれたからこそ、ここまで歩んで来られたんだ」
進は美智子の手をしっかりと握り返した。
二人の還暦を祝うように、窓の外には見事な茜色の夕焼けが広がっている。
デスクの上では、小さなパペットのタロが、二人の幸せな門出を祝福するように、つぶらな瞳で優しく見守っていた。
かつて「自分には何もない」と絶望していた男は、大切な妻とともに、揺るぎない愛と絆という最高の「ホーム」を手に入れた。
「さあ、美智子さん。明日も全国の迷える人たちのために、ハキハキと『超訳』を届けようか」
「はい、進君! 私、いつでも撮影の段取りOKよ!」
二人の笑い声が、黄金色に包まれた部屋の中にどこまでも温かく響き渡っていった。
この後も、二人の物語は続く。
困難なことが、まだ待っているかもしれない。
でも、この二人なら乗り越えられる。
進も道子も、そんな確信があった。
子供がいなくてもいい。
また、仕事が減るかもしれない。
でも、たぶん何とかなる。
二人なら、何とでもなるのだ。
(了)




