第1章 YouTubeチャンネル開設という冒険
【砂噛む現場の悲鳴】
春を予感させる柔らかな日差しが、予備校の無機質な廊下を優しく照らしていた。
講義を終え、教卓の資料をまとめていた進のもとに、懐かしい足音が近づいてきた。
「伊崎先生! お久しぶりです!」
そこに立っていたのは、数年前、必死の面持ちで最前列から進のプレゼンター講義を見つめていた受講生の一人だった。
今ではすっかり凛々しい顔つきになり、中堅の地方公務員として活躍している彼が、近況報告に訪れたのだった。
「おぉ、君か! 元気そうだな。役所のお仕事の段取りには、もうすっかり慣れたかい?」
進がハキハキと温かい声をかけると、元受講生は少し照れくさそうに笑った。
しかし、再会の喜びも束の間、彼がふと落とした影に進は息を呑んだ。
「進先生……実は、現場が、本当に苦しいんです」
かつては「安定の代名詞」と持て囃された公務員の世界。
その足元で、何かが静かに、だが決定的に崩れ始めているという。
「試験の軽量化で、法律を体系的に学ばずに現場に入る後輩が増えています。研修は駆け足で、日々の実務に追われ……昇進試験に向けた勉強なんて、もはや過去問の回答を根性で暗記するだけの『苦行』ですよ」
元受講生は、力なく首を振った。
「意味も分からず数字や文言を丸暗記して……。みんな死んだ魚のような目で、昇進試験という名の苦行に耐えています。こんなことで良いんでしょうか」
進の胸に、かつて自分が経験した苦痛と、目の前の青年たちの苦悩が重なった。
「……現場で迷える彼らを、そのままにはしておけないな。彼らが求めているのは暗記の手順じゃない。法律の本当の『心』と『超訳』なんだ」
【画面越しの壁――孤独な試行錯誤】
「YouTube……か」
京都市郊外のアパートの書斎で、進はポツリと呟いた。
公務員として現場で悩み、昇進試験の丸暗記に疲弊している現職の若者たちへ届けるには、予備校の教壇ではなく、誰もがスマートフォンでアクセスできる動画配信というツールが最適だと思い至ったのだ。
進には長年、数百人の受講生を前にその場の空気を支配し、熱量で圧倒してきた自負がある。
しかし、いざデスクにカメラを据え、一人で座ってみると、その培ってきたはずの「講義スタイル」が、画面の中ではあまりに硬く、そして異様に重すぎることに気づかされた。
試しに数分間、カメラに向かって行政法の解説を録画してみる。
「……本日のテーマは、行政手続法における不利益処分の要件について解説いたします」
再生ボタンを押した進は、絶句した。
画面に映し出されたのは、眉間に深い皺を刻み、険しい表情で威圧的に法理を説く初老の男だった。
背景の書棚は重苦しく、声のトーンはまるで法廷の陳述のように単調で冷たい。
「これではダメだ。重すぎる……」
進は頭を抱えた。
適応障害を経験し、現場の過酷さを誰よりも知る進だからこそ、わかることがあった。
疲れ果てて帰宅し、夜遅くにようやくスマートフォンの画面を開いた若手職員たちが、自分のような「真剣すぎる顔つき」の男から、説教じみた法律の講義を聞きたいはずがないのだ。
「もっと親しみやすく、かつ本質を突く形はないものか……。彼らの心の『隙間』に、すっと入り込めるような……」
「進君、お夕飯のおにぎりの段取りができたわよ……って、あら? どうしたの、そんなに頭を抱えて?」
美智子がドアをそっと開けて入ってきた。
進は深いため息をつき、画面を美智子に見せた。
「現職の公務員たちに向けて、YouTubeで動画を届けようと思ったのだがね。僕が喋ると、どうしても説教くさい教頭先生のようになってしまうんだ。これでは誰も見てくれない」
美智子は画面の中の進をじっと見つめると、ハキハキとした口調でポンと手を打った。
「まぁ! 進君、顔が怖いよ! これじゃあ教室の怖い先生よ。お外で傷ついて疲れて帰ってきた人達が、こんな怖い顔を見たら、お腹が痛くなっちゃうわ!」
「う……やはりそう思うかい?」
「そうよ! 進君のお頭の中にある内容は世界一優しいんだから、表情ももっと優しく見えなきゃダメなのよ! 何か、進君の代わりにお話してくれる、可愛いお友達でもいればいいのにねぇ」
「可愛いお友達……?」
美智子の何気ない一言が、進の胸の奥で小さな光となって弾けた。
自分の威圧感を消し、匿名性を保ちつつ、温かみをもって語りかける手法。
それからの進は、夜遅くまでパソコンに向かい、ヒントを探してネットの海を彷徨った。
そして数週間後、ネットショッピングの画面をスクロールしていた進の指が、ある玩具メーカーのパペットの写真でピタリと止まった。
「……タロ?」
画面の中にいたのは、かつて近所で可愛がっていた、
あの人懐っこい飼い犬にそっくりな犬のパペットだった。
進の胸の奥で、止まっていた命の歯車が、静かに、しかし力強く動き始めた。




