第11章 進の幻影
【夢の残像、面影の迷宮】
その夜、京都市郊外のアパートは深い静寂に包まれていた。
デスクに向かって静かにキーボードを叩く進の横で、久しぶりに心の荷物を下ろした美智子は、泥のような深い眠りに落ちていた。
だが、その枕元で、美智子の意識は遠い過去の闇へと落ちていっていた。
夢の中――。
そこは、定時制高校を卒業し、寮での過酷な生活から逃げ出し、あの館谷との凄絶な同棲生活に破れ、ファミレスで『やっぱ好きやねん』を背に決別を告げた後の、空白の10年間だった。
画面が目まぐるしく切り替わる。
バスガイド、新聞販売所、保険営業……。
どこへ行っても仕事は続かなかった。
部屋は散らかり、買い物の計算は合わず、職場の指示は頭の中で混乱し、いつも誰かに「やる気がない」「怠けている」と怒鳴られる。
そんな傷だらけの美智子の前に、何人かの男性が現れた。
不思議なことに、夢の中で美智子が身を寄せ、懇意になった男性たちはみな、どこか『伊崎進』に似た面影を持っていた。
小柄な背格好、生真面目そうな目元、元広島カープの北別府投手に似た風貌。
不器用だが静かに言葉を紡ぐ佇まい。
傷ついた美智子は、その面影に救いを求め、彼らの差し出す手を取った。
「ここにいれば、私は救われるかもしれない」
そう思ったのも束の間、現実はすぐに牙を剥く。
彼らは、進の面影を残してはいても、進ではなかった。
「なぜ、こんな当たり前のことができないんだ!」
「片付けくらい、ちょっと気を付ければできるだろ!」
「またお鍋を焦がしたのか?君は僕を馬鹿にしているのか!」
彼らには、美智子の脳内で起きている「パニック」や「不可抗力の不器用さ」が、どうしても理解できなかった。
どれほど「次から頑張る」と誓っても、どれほど涙を流して謝っても、彼らにとって美智子の行動はただの「怠慢」であり「身勝手」でしかなかった。
「私……頑張ってるの……頑張ってやろうとしてるの……!」
夢の中で、美智子は声の限りに叫んでいた。
だが、彼らは失望の眼差しを向け、やがて冷たく去っていった。
『普通』を求める彼らと、どれほど努力しても『普通』になれない私。
発達障害という言葉も概念も知らなかった時代。
互いの特性を理解できない人間同士が、同じ屋根の下で暮らしていくことなど、最初から不可能だったのだ。
それが、美智子が歩んできた、あまりにも哀しく孤独な人生の正体だった。
【夢から覚めた世界、本物のぬくもり】
「……う……ううん……っ!」
うなされ、小さく悲鳴を上げた美智子は、パッと目を覚ました。
額にはじんわりと冷や汗が浮かんでいる。
「どうしたんだい、うなされていたけれど」
ハッとして横を見ると、そこにはパソコンの画面を少し暗くし、心配そうに自分を覗き込む進の姿があった。
優しく澄んだ瞳。
真摯で温かい眼差し。
美智子は起き上がると、夢の恐怖を振り払うように、そのまま進の胸へと飛び込んだ。
「進君……! 進君、本物の進君だ……!」
「どうしたんだい、美智子さん。怖い夢でも見たのかい?」
進は驚きながらも、キーボードから手を離し、震える美智子の背中を優しく、トントンと一定のリズムで撫でてくれた。
美智子は進のシャツの胸元に顔を埋めたまま、ポロポロと涙をこぼしながら呟いた。
「私ね、夢を見たの……。館谷くんとお別れした後の、あのお仕事が何ひとつ続かなかった10年間の夢……」
「10年間の……」
「私ね、お外で傷つくたびに、誰かの優しさにすがりたくて……。仲良くなった人たちはね、みんな、どこか進君に似た雰囲気の人たちだったの。小柄で、真面目で……進君の面影がある人ばかりだったの」
進は黙って美智子の言葉に耳を傾けた。
美智子は涙声を震わせながら続けた。
「でもね……みんな、進君じゃなかったの。私がお部屋を散らかすと激しい声で怒鳴って、お料理の段取りが狂うと『怠けてる』って私を捨てていっちゃった……。発達障害のことなんて誰も知らなくて、私の苦しみを誰も理解してくれなかった……。私ね、ずっと一人だったの」
「……」
「でもね、進君! 進君だけは違ったの!」
美智子は進の胸から顔を上げ、涙で濡れた大きな瞳で進を真っ直ぐに見つめた。
「進君だけはね、私がダメダメでも、お部屋が散らかっても、一度も私を怒鳴らなかった!私の不器用さを『怠けてる』なんて絶対に言わなかった!進君はね、私の味方でいてくれた本物の進君だったのよ!」
【二人だけの「正解」】
進は美智子の言葉を噛み締め、胸が強く締め付けられるのを感じた。
過去の男たちが進に似ていたのは、美智子がずっと昔から「誠実で、自分を丸ごと受け止めてくれる存在」を求め続けていた証だったのかもしれない。
そして、幾多の傷を重ねた末に、二人は出会うべくして出会ったのだ。
進は美智子の涙を自分の指先でそっと拭うと、ハキハキとした力強い声で言った。
「あぁ、僕はここにいるよ。君を責める人間は、もうこの世界には誰もいない」
「進君……」
「過去の人たちが君を理解できなかったのは、君が悪いからじゃない。彼らもまた、人間の多様さや、心の段取りを知らなかっただけなんだ。でも、僕には分かる。君がどれほど真面目に、どれほど健気に生きてきたか、誰よりも僕が知っているからね」
進は美智子の両手をしっかりと握りしめた。
「僕もASDという障害を抱え、社会のスピードから弾き飛ばされた男だ。普通の人ができることが、僕にもできない。だからこそ、僕たちは互いの『生きづらさ』を誰よりも理解できるんだ。面影なんかじゃない。僕は、君だけの伊崎進だよ」
美智子の表情が、すっと和らいだ。
胸の奥にこびりついていた10年間の暗い孤独が、進の温かい言葉によって、綺麗に溶け去っていく。
「うん……!進君は、世界でたった一人の、私の進君よ!」
美智子はハキハキとした笑顔を取り戻し、進の手をギュッと握り返した。
「私ね、お夢を見て分かったの。私のお人生は、たくさん失敗して傷だらけだったけど、最後に進君に会うための段取りだったんだって! だから、もう過去の怖いお夢には負けないわ!」
「あぁ。二人で、新しい段取りを作っていこう」
窓の外では、京都の夜風が静かに草木を揺らしていた。
過去の傷跡も、社会からの落選通知も、もう二人を脅かすことはできない。
お互いの「障害」を理解し、丸ごと全肯定し合えるこの小さな部屋こそが、二人にとっての絶対的な聖域だった。
進は再びデスクのライトをつけ、パソコンの前にレジュメを広げた。
横では、美智子が安心したように、進の膝に頭を預けて静かな寝息を立て始めている。
進はペンを握り、受講生たちの未来を照らすための講義レジュメを、一文字一文字、静かに書き進めていくのだった。




