第10章 正式な診断のあとで
【確定の瞬間と、解放の微笑み】
数週間後、再び訪れたメンタルクリニックの診察室。
前回の詳細な心理検査のデータと各種問診の結果を前に、40代の女性医師は、静かに書類を手元に引き寄せた。
オルゴールの旋律が微かに響く静寂の中、女医はデスクに置かれた診断書類に目をやり、そして美智子と進の顔を交互に見つめた。
「美智子さん、先日の検査結果が出ました」
女医の穏やかで凛とした声が室内に通る。
美智子は緊張した面持ちで、進の手を両手でギュッと固く握りしめていた。
進はその小さな手の上から自身の大きな手を重ね、静かに頷いて見せた。
「結果からお伝えしますね。美智子さんには、発達障害の一つである『ADHD(注意欠如・多動症)』の明確な特性が認められます。特に、不注意傾向と実行機能の難しさが強く表れています」
医師の言葉が静かに途切れる。
「formalな診断として、ADHDと確定いたします」という決定的な宣告。
美智子は一瞬、息を呑み、固まった。
進はゆっくりと女医に向き直し、静かに言葉を紡いだ。
「先生、ありがとうございます。正式な診断をいただき、胸が詰まる思いです。妻がこれまでどれほど一人で悩み、自分を責めてきたか……。この結果は、妻にとって『怠け者』という濡れ衣を晴らす、何よりの証明になります」
「ええ、旦那様のおっしゃる通りです」
女医は深く頷き、美智子の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたが買い物の計画が立てられなかったのも、お部屋の片付けが途中で止まってしまったのも、料理の段取りで頭が真っ白になっていたのも……すべては脳の『集中やワーキングメモリーを司る部位』の特性によるものです。あなたが怠けていたわけでも、心が弱かったわけでもありません。よく、ここまで頑張って生き抜いてこられましたね」
「私……怠けて、なかった……」
美智子の唇が震えた。
長年、かつてのパートナーや周囲の人々から投げつけられてきた「なんでこんな当たり前のことができないんだ」「やる気がないだけだ」という刃のような言葉たち。
それが、今この瞬間、医学的な根拠によってすべて無効化されたのだ。
「ううん……! 私、頑張ってたんだ……!」
美智子の大きな瞳から、ボロポロと大粒の涙が溢れ出した。
しかし、その涙は過去の悲しみではなく、自分という存在をまるごと許されたことへの、あふれんばかりの感謝と解放の涙だった。
【2つの不器用が織りなす「新しい段取り」】
診察室からの帰り道。
クリニックを出ると、爽やかな夏の風が二人の頬を撫でた。
街を行き交う人々はみな急ぎ足で、それぞれの「普通」の時間を生きている。
だが、手をつないで歩く進と美智子の世界は、かつてないほど穏やかで満ち足りていた。
「進君……私ね、お名前をもらえて、本当によかった」
美智子は涙を拭った後のみずみずしい笑顔で、ハキハキとした口調で言った。
「私、ADHDだったんだね! なんだか新しいお洋服をもらったみたいで、心がとっても軽いわ!」
「あぁ、本当によかった。美智子さん、これで僕たちは二人そろって『不器用のプロ』だな」
進が少し照れくさそうに微笑むと、美智子はフンスと可愛らしく鼻を鳴らした。
「もう! 何言ってるの進君! 進君はASDで、私はADHDでしょ? 二人あわせたら『全自動でお互いを補う最強のチーム』じゃない!」
「ハハ……確かにそうかもしれないね」
進は美智子の言葉に救われる思いだった。
法律の講義のコマ数が激減し、副業の地獄を味わい、己の障害に打ちのめされた自分。
そして、普通になれずに傷だらけになりながら生きてきた美智子。
二人は社会の「普通」という枠組みからはみ出してしまったかもしれない。
しかし、互いの「取扱説明書」を手に入れた今、二人には二人だけの「新しい段取り」を作る知恵と絆があった。
「美智子さん、これからは家事も仕事も、全部役割分担を見直そう。片付けや計画立ては、僕が段取り(マニュアル化)を作る。君は、得意な明るさでお家を照らしてくれれば、それでいいんだから」
「うん! 私、お部屋を明るくするお仕事なら、世界一得意よ! 進君が困った時は、いつだって私が全肯定の盾になってあげるんだから!」
【京都市郊外の灯火、二人だけの聖域】
京都市郊外のアパートに戻ると、夕暮れの優しい光が部屋をオレンジ色に染めていた。
進はデスクに向かい、予備校の受講生に向けたプレゼンター用の講義ノートを開いた。
横では、美智子が小さな塩おにぎりと温かいお茶を丁寧にテーブルへ並べている。
「進君、夕飯の段取りができたよ! 今日のおにぎりは、診断の結果が出たお祝い!」
「ありがとう。いただきます」
進はおにぎりを一口頬張り、その温もりに目を細めた。
教壇でのコマ数はかつての半分以下。収入も激減し、昼は予備校でのプレゼンター講義、夜はウェブライターとしてPCに向かう地道な日々だ。
だが、その心には、かつて大教室の頂点に立っていた頃には感じられなかった、絶対的な安心感と誇りが宿っていた。
「さあ、今日も画面の向こうで待っている受講生たちのために、僕だけの『講義案』を書き上げよう」
「そうよ、進君! お画面の向こうの子たちに、勇気を届けてきてね!」
小さなアパートの灯火の下、二人の「止まっていた時計」は、今度こそ二人だけの確かなリズムで、力強く未来へ向かって動き出していた。




