第9章 美智子の生きづらさの正体
【止まっていた時計が動き出す】
数日後、進と美智子は街の喧騒から少し離れたビルの一角にある、メンタルクリニックのドアを叩いた。
清潔感のある待合室に一歩足を踏み入れた瞬間、そこには外界の毒気を抜くような、穏やかで静謐な空気が満ちていた。
絶え間なく流れているのは、オルゴールの優しい音色だ。
昭和や平成を彩ったどこか懐かしいニューミュージックの旋律が、金属的な響きを排した柔らかい音の粒となって、硬くなっていた二人の肩の力を自然と抜いていく。
「これを……。慌てなくていい、僕が横にいるからゆっくり書いたらいい」
進に促され、美智子は受付で渡された厚めの問診票と問診シートに向き合った。
「子供の頃の様子」
「忘れ物の頻度」
「計画を立てることへの難しさ」
「対人関係での違和感」――。
美智子は、これまで「自分の至らなさ」や「怠慢」として心の奥底に深く封印してきた痛ましい記憶を、一つひとつ丁寧に手繰り寄せた。
「進君、私ね……小さい頃から、お片付けをしようとすると、どこから手を付けていいか分からなくなっちゃって、いつも怒られてたの」
「大丈夫だよ。それも全部、そのまま書いていいんだ」
進の優しく力強い言葉に背中を押され、美智子はペンを進めた。
それは、自分の過去を正しく整理し、止まっていた人生の時計を動かすための、初めての作業だった。
シートを受付に提出すると、落ち着いた雰囲気の女性スタッフが、静かにそれを受け取った。
【40代の女医と、記録される独白】
「伊崎美智子さん、どうぞ診察室へお入りください」
名前が呼ばれ、進と美智子は静かに扉を開けた。
待っていたのは、穏やかで知性溢れる眼差しを湛えた、40代ほどの女性医師だった。
「初めまして。そしてご主人ですね。今日はよく来てくださいましたね。どうぞお掛けください」
進は美智子の隣に並んで腰を下ろすと、真っ直ぐに女医を見つめ、落ち着いた口調で切り出した。
「先生、本日は妻のことで伺いました。実は僕自身も先日、発達障害と適応障害の診断を受けた者です。僕が自分の特性を知り、これまでの生きづらさの理由を理解したとき、長年寄り添ってくれた妻の苦しみもまた、同じ根っこを持っているのではないかと気づいたのです。妻はこれまで、『普通になれないのは自分の努力が足りないからだ』と、自分自身を責め続けてきました。どうか、妻の声を聴いてやってください」
進の誠実で筋の通った発言に、女医は深く頷き、温かい笑みを浮かべた。
「素晴らしい気づきですね。パートナーの理解は何よりの支えになります。……今、旦那様が仰ったように、今日は何も隠さず、あなたの感じてきたことをそのまま教えてくださいね」
女医は美智子が書いたシートに目を落としながら、ゆっくりと問いを重ねた。
「お買い物の計画を立てるのが難しかったり、お掃除や料理の途中で頭が真っ白になって、次になにをしていいか分からなくなったりしますか?」
美智子は少し緊張しながらも、進の手をギュッと握りしめて答えた。
「……はい。いつも、頭の中に霧がかかったようになってしまって……。お掃除を始めても、お洋服を畳んでる途中で本が目に入ると、そっちに夢中になっちゃって、気がついたらお部屋が足の踏み場もなくなっちゃうんです。前のおうちでも『お前は怠けてるだけだ!』って毎日怒鳴られて……」
美智子の言葉に優しく頷きながら、女医の指はリズミカルにキーボードを叩き、彼女の長年の独白を電子カルテへ刻んでいく。
タタタタ、と鳴り響くその無機質な打鍵音の中に、進は、美智子がこれまでの人生で孤独に流してきた「説明のつかない涙」が綺麗に吸い込まれ、ろ過されていくような、不思議な安堵感を感じていた。
「先生」と、進が静かに言葉を挟んだ。
「妻は一度に二つの作業をこなすことや、状況の変化に臨機応変に対応することがとても苦手です。しかし、僕が失意の底にいたとき、妻は全力で、支え続けてくれました。この不器用さは、性格の欠陥ではなく、脳の特性によるものだと、僕は確信しています」
【救済という名の診断】
女医はキーボードを叩く手を止め、カタカタという音が止んだ。
椅子をクルリと回すと、美智子と進の目を真っ直ぐに見つめた。
「まだ今日一度お話ししただけですので、確定的な診断を下すことはできません。ですが……」
一呼吸置いて、女医は静かに、しかし明確に告げた。
「これまでのお話やシートの内容を聞く限り、美智子さんにも発達障害――特にADHDやASDの特性、その疑いが非常に強いと思われます」
その瞬間、美智子の体がビクッと跳ね、続いて表情がふわりと柔らかく緩んだ。
普通の人にとって「障害」という言葉は重く響くかもしれない。
しかし、人生の半分以上を「なぜ自分だけが普通にできないのか」という正体不明の呪縛に苦しめられてきた美智子にとって、その言葉はまさに天からの「救済」の響きを持っていた。
(私は、怠けていたんじゃなかった。努力が足りないんじゃなかった。ただ、そういう仕組みを持って生まれてきただけだったんだ……!)
重い荷物をようやく下ろした旅人のように、彼女の瞳に、溢れんばかりの光が戻った。
美智子の目から、一滴の大きな涙がぽろりと頬を伝った。
進は美智子の肩を優しく抱き寄せ、女医に向かって深々と頭を下げた。
「先生、ありがとうございます。長年、理由も分からず暗闇の中で傷ついてきた妻に、ようやく『光』を当てていただきました。僕たちは二人とも不器用で、社会の段取りからは外れてしまったかもしれません。ですが、互いの特性を理解し、補い合って生きていく準備が、今日ようやく整いました」
女医は温かい笑みを深め、二人に語りかけた。
「ええ、お二人はお互いにとって最高の理解者ですね。次回、さらに詳しく心理検査を行って、これからの日常をどうやって工夫して過ごしていくか、一緒に考えていきましょうね。次回の予定はいかがですか?」
「はい! 先生、よろしくお願いいたします!」
美智子は声高らかに、ハキハキとしたいつもの弾んだ声で頷いた。
予約を済ませ、クリニックのドアを出ると、外の街並みには爽やかな風が吹いていた。
もう、誰も二人を「使えない」「怠けている」と責める者はいない。
自分たちの特性という名の「盾」と「地図」を手に入れた進と美智子は、しっかりと手をつなぎ、自分たちの歩幅で、新しい明日へと踏み出すのだった。




