第8章 美智子の生きづらかった過去(2)
【「普通」になれない罪】
「でもね、進君。本当の絶望は、その後に来たの」
美智子は自嘲気味にほほ笑んだ。
「その後に出会った男性はね、とても生活力のある人だったの。『働かなくていい、家を守ってくれればいいから』って言ってくれて……私、救われたと思ったの」
「家に入って、奥さんとして暮らすことになったんだね」
「うん。でもね……いざ『家事』というお仕事の前に立ったら、私の頭が完全に反乱を起こしたの」
美智子は両手でお頭を抱えるような仕草をした。
「何度やっても、お部屋が片付かないの。計画的なお買い物ができなくて、お料理の段取りを考えようとすると、頭の中が真っ白になっちゃうのよ。『なぜ、こんな当たり前のことができないんだ!』って、その人に毎日毎日、怒鳴られたわ。怠けてる、やる気がないって……」
「そうなのか……」
「その人が私に別れを切り出した夜、頭の中で松山千春さんの『恋』が流れてたの……。『嫌いになったんじゃない、ただ、一緒にいるのが苦痛なんだ』って。私ね、その時に悟ったの。私は、社会で働くことも、お家で普通に生活することもできない、『普通の人』として生活できない欠陥品なんだって」
美智子の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
明るい笑顔の裏に隠されていた、膨大な傷跡と「普通になれない罪悪感」。
【二人の夜明け】
「進君……」
美智子は涙を拭い、適応障害と発達障害の診断を受けて横になっている進の目を、真っ直ぐに見つめた。
「私ね、どこに行っても『普通』になれなかった。私の努力が足りないんだって、ずっと自分を責めてきたの。でもね……今、苦しんでる進君を見てるとね、昔の私はもっと酷かったって思えて辛いの」
進は言葉を失い、美智子の言葉に耳を傾けた。
「二人ともね、一生懸命生きてるじゃない!怠けてなんかいないじゃない!ただね、私たちがヘタクソで、どうしても上手くいかない場所があるだけなのよ。進君が発達障害なら、私だって絶対にそうなの。私たちが『普通』になれなかったのは、私たちが悪いんじゃなくて、そういう風に生まれてきたからなのよ!」
美智子の告白を聞きながら、進の頭の中で、すべてのパズルのピースが完璧に組み合わさっていった。
美智子の片付けの苦手さ、一度に二つのことができない不器用さ、感情の爆発……それらはすべて、彼女の性格や怠慢などではなく、彼女自身も苦しんできた抗えない「特性(発達障害)」だったのだ。
そしてそれは、今、社会のスピードについていけず適応障害となった自分自身の「生きづらさ」と、全く同じ根っこを持つものだった。
かつて自分を縛っていた「栴檀は双葉より芳し」という言葉。
他者と比べ、何者かになろうとして苦しんできた自分と、生活という戦場でボロボロになるまで傷ついた美智子。
進は重い体をゆっくりと起こすと、美智子の涙で濡れた小さな両手を、自分の両手で力強く握りしめた。
「君は、欠陥品なんかじゃない。僕をずっと救ってくれたのは、他の誰でもない、その温かい君の手だ。……美智子さん、僕と一緒に、クリニックへ行ってみないかい?」
美智子は驚いたように目を丸くした。
「私が病院へ……?」
「あぁ。僕が診断を受けたように、君がずっと一人で抱えて、苦しんできたその痛みにも、きっと『名前』があるはずなんだ。名前が分かれば、僕たちはどうやって助け合えばいいか、どんな段取りで生きていけばいいかが分かる。もう、一人で自分を責める必要なんて、どこにもないんだよ」
進の言葉に、美智子の大きな瞳から、ポロポロと涙が溢れ出した。しかし、今度の涙は悲しみの涙ではなかった。
「進君……!うん、うん!私、進君となら、どこへでも行くわ!二人で病院へ行って、診断名をもらってくる!」
美智子は進の胸に飛び込み、子供のように声を上げて泣いた。
進はその華奢な体をしっかりと抱きしめ、彼女の頭を優しく撫で続けた。
ふと窓の外を見やると、京都市郊外の街並みの向こうから、深い群青色の夜空が静かに白み始めていた。
かつて「一流」にならなければ価値がないと自分を追い詰めていた男と、「普通」になれずに傷だらけになっていた女。
二人の物語は、お互いの弱さと不完全さを丸ごと認め合い、抱きしめ合うことで、本当の意味での「再生」へと向かい始めていた。
社会という巨大で冷たい歯車から外れたからこそ見つけた、世界でたった一つの、二人だけの新しい歩き方。
うっすらと差し込む東の光の中で、伊崎進と美智子は、しっかりと手をつなぎながら、二人だけの確かな夜明けを迎えるのだった。




