第7章 美智子の生きづらかった過去
【痛みの共有と、忘れられた旅路】
メンタルクリニックから帰宅し、己の「発達障害」という診断と不器用さに押し潰されそうになっていた進。
その横で、美智子は静寂の中、ゆっくりと語り始めた。
「進君……。私ね、進君にずっと話せていなかったことがあるの。私の、むかしのお話」
進は驚いて顔を上げた。
「過去……? 定時制高校を出てから、僕と出会うまでのことかい?」
「そう。私ね、進君に格好悪いところを見せたくなくて、ハキハキした私だけを見てほしくて、ずっと言えなかったの」
美智子は膝の上で自分の小さな手をぎゅっと握りしめた。
それは、進がこれまで断片的にしか知らなかった、美智子という一人の女性が「普通」になろうと必死に足掻き、そのたびに打ち砕かれてきた、長く凄惨な旅路の記録だった。
「進君も知ってる通り、私、岡山の高校受験で大失敗したでしょ?数学が壊滅的で、第一志望に落ちちゃって……それで進君と同じ、あの定時制高校の門を叩いたの」
「あぁ、同じように寮生活だったね」
「でもね、男子寮と違って、女子寮は地獄だったのよ。学年混合の相部屋で、厳しい先輩後輩のルールがあって……。私、どうしてもみんなと同じルールでお掃除したり、お話ししたりができなかったの。何が悪いのか分からないのに、毎日毎日、誰かに怒られてばかりで……」
美智子は遠い目をして、苦笑いを浮かべた。
「耐えきれなくなってね、私、1年生の時に2回も、夜の闇に紛れて寮を逃げ出したの」
それは聞いたことがあった。
2回も寮を逃げ出した。
でも、戻ってきた。
普通に、偉いと思っていた。
なかなか出来ることではない。
美智子が続けた。
「でもね、逃げたって15歳の子に行くあてなんてないじゃない?結局、泣きながらあの寮に戻るしかなかった。でもね、定時制高校にいた時はまだラッキーだったのよ。大学の女子寮の管理補助のお仕事に就けていたから。単純作業ばかりで、接するのは優しい寮長さんと学生さんだけだったし。そこは私にとって、天国みたいに居心地がよかったの」
「そうだったのか……。環境さえ合えば、君はちゃんと輝けていたんだね」
「うん。でもね、そこを出てからが……本当の地獄の始まりだったの」
【暴力の残響と、ファミレスの決別】
美智子は定時制高校を卒業後、職を転々とした。
新聞販売所、バスガイド、保険営業……。
だが、環境が変わるたびに人間関係に躓き、体と心を激しく壊していった。
彼女を待ち受けていたのは、職場での生きづらさだけではない、もっと残酷な「生活」という名の怪物だった。
「最初の大きな転機はね、あの館谷君との再会よ」
美智子の声が、かすかに震え始めた。
「館谷君、最初はね、とっても優しかったの。でも、結婚を前提にお同棲を始めた途端、急に牙を剥いたの。毎日毎日のDV……お外に出るのも、お友達と喋るのも全部監視されて、凄まじい束縛だったわ」
それは知っていた。
鶴橋駅まで迎えに行ったあの日を思い出す進。
美智子は進の手の上に自分の手を重ねて言った。
ただ、その詳しいことは、当時は聞かずじまいだった。
「あまりの酷さに、私、一度命からがら逃げ出したの。そうしたらその人、私をファミレスに呼び出したのよ。『やり直そう。やっぱ、お前じゃなきゃダメなんだ』って、お涙をポロポロ流してね」
「……卑劣な男だ。それで、君はどうしたんだい?」
「その時ね、お店の有線放送から、やしきたかじんさんの『やっぱ好きやねん』が流れていたの……」
美智子は冷たくなったお茶の湯呑みを握りしめ、当時の情景を思い出すように目を伏せた。
「震える手で冷めたコーヒーを握りしめながら、私、その歌を聴いていたわ。かつて愛した男の涙も、切ないメロディも、今の私を守るためには毒でしかないって、直感で分かったの。情に流されたら、私、今度こそ殺される……そうお命が叫んでた。だから私、震える声で『もう絶対に無理です』って、ハキハキ拒絶したの」
進は息を呑み、美智子の顔を見つめた。
華奢な彼女が、どれほどの恐怖の中で自らの命を守るための決断を下したのか。
その凄絶な過去に、胸が締め付けられる思いだった。




