第6章 ウェブライターと発達障害
【密やかな通院と、小さなスクリーンの戦場】
地獄のような副業の数々から撤退した進は、本業である公務員試験対策予備校の専任講師としての活動に、再び全神経を集中させ始めた。
しかし、適応障害と診断された心身の傷は、そう簡単に癒えるものではない。
進は予備校側に通院の事実を一切伏せたまま、週に一度、診察が終わる時間を見計らってメンタルクリニックへ密かに足を運ぶ日々をスタートさせた。
「伊崎先生、本日の配信もよろしくお願いします!」
予備校の若いスタッフに挨拶を返しながら、進は教室へと向かう。
通院していること、抗不安薬を忍ばせていることなど、プロとしてのプライドが絶対に周囲に悟らせなかった。
講義のスタイルは、進が得意とする「プレゼンター(書画カメラ)」を使った手法だ。
黒板の前に立って大声を張り上げるスタイルから、手元のプレゼンターで自作の緻密なレジュメや図解をリアルタイムで映し出し、受講生の目線に合わせて「超訳」を書き込んでいくスタイルへ。
教室にも受講生がいる。
パソコンの向こう側にも受講生がいる。
ハイブリッド講義。
それが、今時の講義スタイルだ。
「みなさん。今日は民法177条の『第三者』について学習します。登場人物が3人います。1人は、もともと土地を持っていたAです。Aは悪い奴です。BとCの2人に二重に土地を売りました。Aは2人から代金だけ受け取って夜逃げしました。残されたBとCが喧嘩しています。この土地は、どっちのものかで喧嘩しているんです」
プレゼンターのライトに照らされた進の手元。
震えていたはずの指先は、ペンを握り、受講生のための図解を描き始めた瞬間に、一切のブレをなくす。
画面の向こうにいる受講生たちから、チャット欄に「わかりやすい!」「なるほど!」という反応が次々と流れる。
どれほど時代が変わり、専門科目のコマ数が減らされようとも、プレゼンターの小さなスクリーン越しに届ける進の講義には、圧倒的な命が宿っていた。
こここそが、自分を偽らずに生きられる、唯一の聖域だった。
【診断結果、そして美智子の告白】
しかし、クリニックでのカウンセリングと心理検査を重ねていく中で、主治医から告げられた診断結果は、進にとって予期せぬものだった。
「伊崎さん。これまでの経歴や、対人関係での生きづらさ、特定の分野への極端なこだわりなどを総合的に判断すると……あなたはASD(自閉スペクトラム症)の傾向が強い、いわゆる『発達障害』の特性をお持ちです」
主治医の静かな言葉が、診察室に響いた。
一度に複数のマルチタスクをこなせないこと。
臨機応変な接客や電話対応でパニックを起こしてしまうこと。
一方で、法律という単一の深い論理に対して1日15時間も没頭し続けられる異様な集中力。
そのすべてが、「発達障害」という一つの言葉で説明がついてしまったのだ。
夕暮れ時、重い足取りで鳴滝のアパートへ帰った進は、食卓で待っていた美智子に、診察室での出来事をありのままに打ち明けた。
「僕はね、適応障害なだけじゃなかった。『発達障害』だと診断されたよ。確かに、昔から人とうまく交われず、普通の人ができる電話対応や倉庫の仕事が、どうしてもできなかったんだ。……生まれた時から『普通』じゃなかったんだよ」
自責の念に押し潰されそうになる進。
だが、その話を聞いた美智子は、驚く風もなく、どこか納得したようにポンと手を打った。
「進君、発達障害だったの?それのどこが悪いの?」
美智子はハキハキとしたイントネーションで言った。
「一つのことにしか集中できないからこそ、進君はあんなにすごい法律の講義ができるんでしょ! 普通の人と同じことができなくたって、別に良いじゃない!」
さらに美智子は、自分の胸を指差して、悪戯っぽく笑った。
「実はね、進君。……たぶん私だって、きっと発達障害よ!」
「え……?」
思わず顔を上げた進に、美智子は大きく頷いた。
「そうよ! だって私、一度に二つのことが絶対にできないでしょ?お洗濯をしながらお鍋を見てると、必ずお鍋を焦がしちゃうし、お話も思いついたらズバズバ言っちゃうし!進君が発達障害なら、私も仲間よ!似たもの夫婦なんだから、なんにも心配することないじゃない!」
美智子の、一切の悲壮感を感じさせない、明るくハキハキとした全肯定。
「自分は欠陥品ではないのか」という進の恐怖は、美智子の言葉によって、一瞬にして温かい安らぎへと変わっていった。
「……そうか。僕たちは、最初からそういう『不器用な二人』だったんだね」
「そうよ! 不器用だけど、二人で助け合えば世界一ハキハキ生きていけるんだから!」
【在宅という新たな砦、言葉を紡ぐ夜】
収入の減少を補うため、進は外へ出て働く副業を完全に諦め、自宅のパソコン一台で完結する「ウェブライター」の仕事を新たに始めた。
これが、進の特性に見事にはまった。
クラウドソーシングサイトで受注するのは、専門的な法律解説記事や、資格試験の学習法、行政手続きの解説といった、緻密なリサーチと論理的な文章力が求められる案件だ。
対人コミュニケーションや速さを競う電話対応とは違い、自分のペースで、納得がいくまで推敲を重ねることができる。
夜、京都市郊外のアパート。
美智子が傍らで静かな寝息を立てる中、進はパソコンのモニターに向かい、キーボードを静かに叩いた。
実務家として長年培ってきた法律知識と、受講生を惹きつけてきた言語化能力。
それらが画面の上で鮮やかなテキストとなって紡がれていく。
1文字1円にも満たない地道な原稿料ではあったが、納品するたびにクライアントから感謝の言葉と報酬が届いた。
昼は予備校の配信ブースでプレゼンターを握り、夜は自宅でウェブライターとして言葉を紡ぐ。
外の騒々しい世界に無理に馴染もうとするのではなく、自分の得意な「言葉と論理」の領域だけで勝負する。
「進君、パソコンでお仕事をしてるお背中、とっても格好いいよ」
目を覚ました美智子が、ブランケットを羽織りながら温かいお茶を置いてくれた。
「ありがとう。自分の得意なことなら、僕はまだ誰かの役に立てるよ。これで、生活の段取りも少しずつ建て直していけそうだ」
「そうよ! 自分の大好きなことだけやっていればいいの!」
還暦を目前に控え、時代の荒波に揉まれ、己の障害と向き合いながらも、伊崎進は自らの「得意」と「居場所」を再構築した。
最愛の妻・美智子の全肯定の笑顔に守られながら、進は今日もプレゼンターの光の下で、そして静かな画面の前で、力強く自らの足で歩み続けるのだった。




