第5章 ベルトコンベアの地獄
【第三の戦場、ベルトコンベアの地獄】
「適応障害」の診断書を抱え、一度は「教壇以外の場所からは撤退する」と心に誓った進だったが、現実の生活費は容赦なく口座から減り続けていた。
美智子は「おにぎりを小さくすればいい」と笑ってくれたが、還暦間近の男としての矜持が、何もしないまま愛する妻に負担をかけ続けることを許さなかった。
「話を聞かない、人と喋らない仕事なら、今の僕でもできるはずだ……」
進が藁にもすがる思いで選んだ第三の副業は、大手物流企業の倉庫で行われる、お中元シーズンの「宅配便仕分けアルバイト」だった。
接客も、電話対応も、PC入力もない。ただ目の前の荷物を仕分けるだけの単純作業。
これなら法律家としてのプライドを傷つけられることも、誰かを騙して怒鳴られることもないはずだった。
だが、広大な倉庫に一歩足を踏み入れた瞬間、進の甘い見通しは打ち砕かれた。
頭上を疾走する無数のベルトコンベアの駆動音が、地鳴りのように響き渡る。
目の前を、途切れることなく怒涛の勢いで流れ去っていくお中元の重い箱、箱、箱。
進の担当は、流れてくる荷物のバーコードを一瞬で見極め、配送地域ごとのコンベアへと仕分けて乗せていく作業だった。
だが、適応障害で心身ともに削り取られていた進の手は小刻みに震え、動体視力も思考力も全く追いつかない。
「おいっ! 手を止めるなよ! 詰まるだろ!」
「おっちゃん、もっと早く動け! 後ろが詰まってんだよ!」
怒号が飛び交う。パニックに陥った進は、コンベアの終着点である「台車への荷積み作業」へと配置転換された。
しかし、そこでも進の不器用さは残酷なまでに浮き彫りとなった。
限られた台車のスペースに、形状の異なるダンボールをいかに効率よく、崩れないように立体パズルのように組み上げていくか――。
進は、焦りと極限の肉体疲労で頭が真っ白になっていた。
懸命に進の積み上げた荷台。
それはは今にも崩落しそうなほどに傾いていた。
「あー、もうダメだ! どいて!」
見かねた現場社員が割り込んできた。
社員は進が必死の思いで積み上げた荷物を、ガシャガシャと無造作にすべて崩すと、吐き捨てるように一から積み直していった。
自分が費やした時間と体力が、目の前でゴミのように扱われる瞬間だった。
「あのさー、ちゃんとしてくれない?邪魔なんですけど」
ふと周りを見渡せば、60代、70代の小柄な年配者たちが、流れるような美しい無駄のない動作で、テキパキと重い荷物を捌いている。
自分よりも遥かに年長の人々にすら、何一つ及ばないという剥き出しの事実。
腰と膝を襲う激痛、そして「自分は社会の何の役にも立てない」という壊滅的な無力感に押し潰され、進はわずか3日で、その作業着を脱ぐことになった。
【渇かない瞳、FMラジオの慈雨】
京都市郊外のアパートの薄暗い部屋。
万年床の上に丸まり、進はただ天井のシミを、乾いた虚無の目で見つめていた。
全身の節々がキシキシと痛む。
だがそれ以上に、魂を根底から削り取られた痛みが、進の思考を停止させていた。
「僕は、一体何をやっているんだろう……」
その時、引き戸が静かに開き、美智子が部屋に入ってきた。
美智子はハキハキとしたいつもの大声を封印し、まるで壊れ物に触れるかのような静かな足取りで進の傍らに腰を下ろした。
そして、震える進の細い肩に、家から持ってきた古いぬくもりのあるブランケットをそっとかけた。
「進君……。少し、横になってなよ」
美智子の優しさが、かえって進の胸を刺した。
進は顔を覆い、かすれた声で絞り出した。
「……情けないよ。派遣に行けば『使えない』と罵られ、電話を持たせれば詐欺師と呼ばれて警察に突き出されそうになり、倉庫の荷物一つ満足に積めない。僕は……僕という人間は、もう完全に空っぽなんだ」
進の目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、ブランケットを濡らしていった。
「……進君?」
美智子は進の涙を指先でそっと拭いながら、ゆっくりと語りかけた。
「あのね、お荷物を上手に積むお仕事はね、あのお荷物のプロのおじいちゃんたちがやればいいの。電話をペラペラかけるお仕事は、そういうのが得意なお兄ちゃんたちがやればいいの。進君はね、そういう仕事に向いてないのよ」
進は黙って天井を見つめていた。
「進君はね、試験で泣きそうになってる受講生の人たちに、分かりやすい講義を届けてあげるのに向いているの。進君が毎日何時間も準備して作ってきた講義ノウハウはね、世界中の誰にも真似できない、進君だけの宝物なんだから!」
美智子は、進の手を握りしめた。
「空っぽなんかじゃないわ! 進君のなかにはね、三十年もかけて溜めてきた、優しくて強い『受講生を想う心』がいっぱい詰まってるの! そんな部外者の人たちに、何が分かるの。進君は、教室で頑張れば良いの。お金がなくても良いじゃない。死ぬことはないわ」
ラジオから、辛島美登里さんの歌が流れていた。
その慈雨のようなFMの音楽と、美智子の100%の愛情に満ちた言葉が、カラカラに乾ききっていた進の魂の底へ、じわじわと染み渡っていく。
進はブランケットを握りしめ、美智子の胸に顔を埋めて、子どものように泣いた。
プライドも、焦りも、見栄も、すべてが涙とともに洗い流されていく。
暗闇の中で、伊崎進の瞳に、再びかすかな、しかし消えることのない「情熱の灯火」が宿りはじめていた。
もう、無理な仕事はしない。
そう誓って進は、メンタルクリニックの予約を入れた。




