第4章 裏切りの求人
【第二の戦場、嘘だらけの求人】
コールセンターを戦力外となった進に、派遣会社が次に提示したのは「大手インターネット回線の案内業務」だった。求人票の備考欄には、大きな文字で『ノルマなし・未経験歓迎』と書かれていた。
「今度のお仕事は、ノルマがないんだね!よかったあ。これなら進君も、落ち着いて仕事の段取りができるわね」
京都市郊外のアパートで、美智子はホッとしたように進に笑いかけた。
進もまた、削減された法律のコマ数を埋めるため、「今度こそは」と自分に言い聞かせていた。
「あぁ。数字に追われないのであれば、お客様一人ひとりの話をしっかり聞いて、誠実な案内ができるはずだ。法律家としての良心も痛まないよ」
だが、初出勤の日、進が足を踏み入れたオフィスで目にしたのは、求人票の言葉を完全に裏切る冷酷な現実だった。
フロアの正面の壁には、模造紙に書かれた全オペレーターの「本日の架電数」と「成約件数」が、生々しい赤ペンで張り出されていたのだ。
ノルマという言葉こそ使われないものの、そこにあったのは、静かで、しかし絶対に逃げ場のない心理的な「詰め」の空気だった。
渡された架電リストの先にいるのは、大半が地方の高齢者世帯だった。
進がマニュアル通りに「今より料金が安くなりますよ」と丁寧な口調で切り出した瞬間、相手の警戒心はマックスに跳ね上がった。
現代において、その誘い文句は、高齢者にとって悪質な詐欺のトリガーそのものだったからだ。
ある日、受電ボタンを押した進の耳に、凄まじい怒号が飛び込んできた。
「おい! さっきから何が安くなるだ! うちのボケかけた親父を騙そうとしたな! てめえ、名前を名乗れ! 会社はどこだ! 今すぐ警察に突き出してやるからな!」
ガチャン! と、鼓膜が破れんばかりの音を立てて叩きつけられる受話器。
進は受話器を握ったまま、全身から血の気が引いていくのを感じた。
相手を騙すつもりなど毛頭ない。
だが、自分のしている仕事が、社会の害悪として他人に恐怖と怒りを与えているという事実に、進の心リは激しく悲鳴を上げた。
恐怖と罪悪感で、進の架電のペースが目に見えて落ちていく。
すると、手元のパソコンの管理システムですべての挙動を把握している上司が、足音もなく進の真後ろに立ち、耳元で冷たく囁いた。
「伊崎さん、データ完全に止まってるよ。ノルマはないけど、架電数が足りないのはただの怠けだから。次、早く行って」
【砕け散った鎧、そして診断書】
1ヶ月が、進の精神の限界だった。
進はついに派遣元に事情を話し、身を引く決意をした。
しかし、社内の連携すら満足に取れていないその会社は、正式に退職手続きを済ませたはずの翌朝にも、無神経な催促の電話をかけてきた。
「あ、伊崎さん? 今日シフト入ってるんですけど、なんで出勤してないんですか? 困るんですよね」
「……私は、昨日付けで退職の手続きを完了しているはずですが」
「あー、そうなの? 届いてないわ。じゃ、そういうことで」
ツーツーと切れる通話音。
スマートフォンの画面を見つめたまま、進の心臓が耳元で鐘のようにドクドクと激しく鳴り響いた。
「僕は……一体、何をやっているんだろう……」
翌朝、進の体は鉛のように重く、ベッドから起き上がることすらできなかった。
天井を見つめる進の目は虚ろで、呼吸は浅い。
見かねた美智子が、泣きそうな顔で進の体を抱き起こし、近所のクリニックへと連れて行った。
数日後、鳴滝のアパートの食卓で、進は1通の診断書を前に、深く、深くうなだれていた。
医師の無機質な文字で記されていた病名は、「適応障害」。
「適応、障害か……。これは僕の『敗北の証明書』だ。かつてどんな難解な法律問題も、塾の不条理も跳ね返してきたはずなのに、僕は、たかが派遣の電話一本に耐えられず、社会から完全に脱落してしまった。情けない……」
進の目から、大粒の涙がポロポロと通帳や診断書の上に落ちていく。
還暦を前にして、心を病んでしまった自分への圧倒的な情けなさ。
【美智子の抱擁】
その時、食卓の向こうから回ってきた美智子が、進の頭を自分の胸の中にぎゅっと抱きしめた。
彼女の手が進の白髪混じりの髪を、優しく、何度も何度も撫でる。
「進君……もう、そんな悲しいこと言わないで。進君はね、負けたんじゃないわ。優しすぎただけよ!」
美智子の声は、涙で少し震えていたが、そこには進を何が何でも守り抜くという、凄まじい決意がこもっていた。
「あのね、進君。お独りぼっちのおじいちゃんやおばあちゃんを相手に機嫌を取る仕事なんて、法律を教えてきた進君に向かない。もし進君が、あんなところで平気な顔をしてお電話をかけ続けられるような人になっちゃってたら、それこそ私は進君のこと嫌いになっちゃうわ!」
美智子は進の顔を胸から離すと、その涙を自分の手のひらでハキハキと拭った。
「お医者さんの診断はね、ただ『その仕事辞めな』って言ってるだけよ!進君が社会から脱落したなんて、私が絶対に認めないんだから! 進君はね、教室で迷子になってる生徒の人たちを救うために、神様から教える能力を授かったの。あんな悪い会社のために、進君の真心を削っちゃダメ!」
「そうだね……でも、僕は、もう教壇以外の場所では、ただの役立たずなんだ……」
進が声を詰まらせると、美智子は大きく鼻を鳴らし、満面の笑顔を見せた。
「だったら、教室の中だけで生きていけばいいじゃない!お金が三分の一になったら、おにぎりを小さくして、私がもっともっと工夫すればいいの!進君が元気に生きてて、私の近くで法律の講義のお仕事をしてくれることが、私にとっての一番の望みなの。だから進君、もうあんなお仕事に行っちゃダメよ」
美智子の、魂の奥底からの全肯定。
その言葉の温もりが、冷え切っていた進の心臓に、じんわりと確かな血流を取り戻させていく。
「……あぁ。ありがとう。僕は、また君に救われたよ。僕は僕のままで、僕を必要としてくれる、あの小さな教室の受講生たちのためだけに、もう一度、這い上がろう」
進は美智子の小さな手を強く握り返した。
砕け散った鎧の破片の中から、一人の男の、本当の「矜持」が静かに首をもたげていた。
例え社会の段取りから外れようとも、美智子という最強の盾がある限り、伊崎進は何度でも、自らの戦場へと戻っていくのだった。




