第3章 派遣における戦力外通告
【速度という正義、崩れ去る段取り】
コールセンターのフロアに一歩足を踏み入れた瞬間から、進は圧倒された。
正面の壁に掲げられた巨大な液晶モニターには、リアルタイムで「待機中の受電数」と「平均通話秒数」が冷酷なデジタル数字で刻一刻と表示されている。
呼び出し音が鳴り響き、受電までの秒数がわずかでも伸びると、スーパーバイザー(SV)たちから怒鳴り声に近い催促がフロア中に飛び交った。
「早く取って!」
「3番ライン、受電伸びてます! 早く!」
進はパニックになりそうな心を必死に抑え、受電ボタンを押した。
しかし、相手の要望は多岐にわたり、臨機応変なシステム入力と案内が求められる。
少しでも入力を早くしようと、進は夜、自宅で美智子が眠りについた後、キーボードのタイピングを指が引きつるまで猛練習した。
さらに、業務効率を上げるため、「インバウンド観光案内・独自効率化マニュアル」をノート数冊にわたり自作し、職場に持ち込んだ。
しかし、その生真面目な努力が、最悪の形で裏目に出る。
「伊崎さん、ちょっとこれ何ですか?」
平成生まれの若い女性SVが、進の自作マニュアルを指先でつまみ上げ、冷淡な声を浴びせた。
「外部書類の職場持ち込みは、個人情報保護とセキュリティ対策で一発アウトなんですけど。情報漏洩対策の常識、分かってます? 即刻カバンに仕舞ってください」
「……あ、いや、これは業務の効率化を狙って…」
「ルールなんで。勝手なことしないでください」
法律の専門家である進が、コンプライアンスを盾に「常識がない」と一蹴される屈辱。
それだけではなかった。
ヘッドセットの向こうから聞こえる周囲の若い派遣社員たちの囁き声が、矢のように進の胸に突き刺さる。
「あの新人、パソコンの操作遅すぎじゃない?」
「観光案内なんて適当に相槌打って臨機応変にやればいいのに、なんであんなに一言一句ガチガチに固いの? 頑固だし、超使いづらいんだけど」
彼らは、目の前の白髪混じりの男が、かつて大教室で数百人の若者を前にして華麗に法理を説き、人生の「橋」を架けてきた一流の専任講師であることなど、知る由もない。
ここでは進はただの「仕事ができない、プライドだけは高そうな高齢の新人」に過ぎなかった。
【美智子の全肯定、泥にまみれたプライド】
「進君……背中がすっかり小さくなっちゃって……」
深夜、京都市郊外のアパートに戻り、精根尽き果てた様子で玄関に崩れ落ちた進を、美智子が声を潜めて出迎えた。
ネクタイは曲がり、目は虚ろで、手はタイピングのしすぎで小刻みに震えている。
進は食卓に手をつき、ポロポロと涙をこぼしながら、自分の無力さを吐露した。
「僕は、本当に役立たずだ。法律の教壇を降りたら、コールセンターの若い子一人にまともに言い返すこともできない。パソコンが遅い、頭が固いと後ろ指を指され……僕は一体、何のためにここまで生きてきたのだろうか」
進の細くなった肩を見て、美智子はたまらず進の胸に飛び込み、その背中を両手で強く、何度も撫で回した。
「進君! そんなこと言ったらダメ!私、絶対に許さないんだから!」
美智子は進の涙に濡れた顔を両手で挟み込み、その大きな瞳を真っ直ぐに向けた。
「パソコンが遅いのも、頭が固いのもね、進君がそれだけ一つひとつのお仕事を真面目にやろうとしてるからでしょ! 適当に相槌を打って誤魔化すようなお仕事なんて、法律の先生である進君ができるわけないじゃない! 泥棒みたいな仕事のやり方をしてる周りのほうが、おかしいのよ!」
「美智子さん……」
「お金のため、私のために、進君がそんなところでペコペコして傷ついてるのを見るのが、私は一番悲しい! 進君は、何百人もの生徒の人たちを合格させた、世界一先生なのよ! 」
美智子の、一切の妥協のない全肯定。
泥にまみれた進のプライドを、美智子はまるで汚れた衣服を丁寧に洗うかのように、その真っ直ぐな言葉で清め、蘇らせてくれた。
進は美智子の小さな体を抱きしめ、深く息を吐き出した。
「ありがとう、君の言う通りだ。僕のやり方は不器用かもしれないが、決して不誠実ではない。最後まで、自信を持ってがんばってみるよ」
【「期間満了」という名の戦力外、そして最後の席】
しかし、雇い主側の評価は冷酷だった。
派遣業務を始めて5ヶ月が経とうとする頃、進は派遣元の担当者から「期間満了」という名の事実上の戦力外通告を受けた。
さらに屈辱は続いた。
残りの消化期間、シフトの引き継ぎを行う中で、平成元年生まれの若いコールセンター責任者は、進の顔を見ようともせず、スマートフォンを弄りながら吐き捨てるようにタメ口で言い放った。
「……てかさー、伊崎さん。もうシフト埋まってるし、交通費かけてまで無理して来なくていいよ、もう。ぶっちゃけ、いる意味ないんで」
言葉の暴力が、還暦前の進の胸に容赦なく突き刺さる。
かつての尖っていた進であれば、労働契約の信義則や優越的地位の濫用といった法律論をぶつけて徹底抗戦していただろう。
だが、今の進は、ただ静かに一礼しただけだった。
「……分かりました。お気遣い、ありがとうございます」
反論することもしなかった。
それは諦めではなく、今の自分を支えてくれる「美智子」という唯一無二の盾の価値を、こんな冷酷な場所で汚したくなかったからだ。
「いる意味がない」と言われても、進は最後まで自分のシフトの席に座り続けた。
生活費のため、そして、自分の仕事を最後まできちんとやり遂げるという、実務家としての「譲れない一線」を守るために。
受電ボタンを押し、ハキハキとした声で「お電話ありがとうございます。伊崎が承ります」と発声する。
その凛とした声は、周りの嫌味な派遣社員たちの雑音をかき消すように、フロアに響いていた。
すべてを奪われ、戦力外通告を受け、最低限の尊厳さえ踏みにじられても、伊崎進という男の心には、美智子が灯してくれた「誇りの火」が静かに燃え続けていた。
進は、最後まで背筋を伸ばし、その地獄のような派遣の最後の1時間を、毅然とした段取りで戦い抜くのだった。




