第2章 追いつめられる進
【逼迫する現実、三分の一の収入】
しかし、美智子の温かい励ましによって精神的な気力を繋ぎ止めたものの、現実の「数字」は、あまりにも過酷な現実を進に突きつけてきた。
公務員試験制度改革の波は止まらず、翌期には大学の正課講座から専門法律科目の枠がほぼ全廃された。さらに、予備校側でも法律講師の余剰が発生し、進が長年維持してきたコマ数は劇的に削減されてしまった。
その結果、進の講師としての収入は、かつての「三分の一」にまで激減してしまったのだ。
「……三分の一、か」
月末、通帳に記載された振込額を前に、進は再び言葉を失った。
かつて1日15時間、365日休まずに働き、経済的な「自立」と「平穏」をようやく手に入れたはずだった。
だが、どれほど個人の努力や技術を磨き上げようとも、時代という巨大な激流の方向転換の前には、その努力さえも一瞬にして押し流されてしまう。
家賃の支払い、日々の食費、そして将来への蓄え。
逼迫していく経済状況に、進の肩は再び重く沈み込んでいった。
かつて定時制高校の寮で感じ、大学卒業後にも味わった、あの暗い貧困の影が、再び自分の人生に覆い被さってくるような恐怖。
しかし、食卓の向こうでは、美智子がいつもと変わらない笑顔で、小さな塩おにぎりと、丁寧に殻を剥いたゆで卵をお皿に並べていた。
「進君、ご飯の段取りができたよ! 今日はお金が三分の一になっちゃったから、おにぎりも少し小さめだけど、愛情は三倍入ってるからね!」
美智子の冗談めかした明るい声に、進は胸が熱くなり、思わず視線を落とした。
「美智子さん……僕の収入がこんなに減ってしまって、君に苦労をかける。本当に申し訳ない。僕がもっと、時代に合わせてSPIの講義でもうまいこと教えられればよかったのだが……」
「もう、進君、何を言ってるの!」
美智子はハキハキとした強い声で進の言葉を遮った。
「進君がSPIを教えるのは変な気がする。だって、進君はずっと法律科目や時事や歴史の講義をしてきたんでしょ。そういう実績があるんだから自信を持たなきゃ! 私はね、法律を熱く語ってる進君の背中が世界一好きなの。お金が三分の一になったら、三倍工夫して暮らせばいいだけでしょ? 私、一度に一つのことしかできないけど、進君を世界一応援して、美味しいおにぎりを作ることは、何があってもずーっと続けられるんだから!」
美智子は進の前に座ると、そのおにぎりを一つ、優しく進の手に握らせた。
「だからね、進君。お腹をいっぱいにして、また次の教室で、進君だけの最高の講義をしてきて。進君は、進君のままでいて。それが私の、一番の願いなんだから」
手に伝わる、おにぎりの温もり。そして、美智子の純度100%の愛と信頼。
進の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう。君がいてくれれば、僕はどんな波が来ても、絶対に大丈夫だよ。この三分の一の場所からでも、もう一度、僕だけの戦いを始めよう」
制度改革という時代の荒波に居場所を奪われ、経済的にも追い詰められながらも、伊崎進の魂の灯火は決して消えなかった。最愛の妻の言葉を唯一の盾として、進は再びペンを握り、限られた教壇という聖域で、自らの「正義」を若者たちに伝えるための泥臭い闘いへと、静かに立ち上がるのだった。
【未知の戦場、派遣登録】
専門法律コマ数の激減により、収入がかつての三分の一にまで落ち込んだ現実は、伊崎進の生活設計を容赦なく脅かしていた。
美智子は「三倍工夫して暮らせばいい」と笑ってくれたが、還暦を目前に控えた一人の男として、愛する妻にこれ以上の経済的不安を強いるわけにはいかない。
進はプライドをすべて捨て、激減した収入を補うために「派遣登録」という未知の領域へ踏み出す決意を固めた。
「進君、本当に大丈夫? 慣れない仕事で怪我でもしたら大変よ」
京都市郊外のアパートの玄関で、心配そうに眉をひそめる美智子に、進は努めて明るく微笑んだ。
「大丈夫だよ、美智子さん。どんな仕事でも段取りさえ理解すれば、何とかなるさ。少し社会勉強をしてくるよ」
だが、進が送り込まれた最初の派遣先――企業の代表電話からインバウンドの観光案内まで幅広く請け負う巨大なコールセンターは、進がこれまでの人生で培ってきたすべての論理やプライドが、1ミリも通用しない無慈悲な「地獄」だった。




