第1章 試験制度改革という名の試練
【コロナ禍の終息、そして予期せぬ潮流】
2022年、世界を震撼させた感染症はすっかり終息に向かい、閉ざされていた大学の門は再び開かれた。
キャンパスには学生たちの賑やかな声が戻り、予備校の教壇にも対面授業が本格的に復活した。
進のスマートフォンには、再び各地の大学や予備校からの出講依頼のメールが届き始めていた。
「よかったね、進君! また教室でみんなの前でお話ができるね。洋服もアイロンがけしなきゃ!」
京都市郊外のアパートで嬉しそうにシャツを畳む美智子に、進もまた「あぁ、やっと日常の段取りが戻ってきたよ」と、安堵の微笑みを返していた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
コロナ禍という未曾有の災厄を経て、公務員採用の現場では、進の予想を遥かに超えるスピードで「ある破壊的な地殻変動」が進行していたのだ。
――公務員試験制度改革。
2025年。それは進にとって、これまでの講師としての存在意義を根底から揺るがす、冷酷なパラダイムシフトの年となった。
深刻な受験者減少と民間企業との人材獲得競争に焦る地方自治体、さらには国までもが、試験の「超・軽量化」へと舵を切ったのだ。
市役所試験や大阪府、奈良県庁、堺市などは、少し前から軽量化に動いていた。
それが、一斉にほかの自治体に飛び火した。
多くの県庁・大都市の採用試験において、従来の重厚な「専門試験」や「教養試験」と別枠で、特別な公務員対策を必要とせず、民間企業でも広く使われている適性・知能検査――『SPI』や『SCOA』が導入された。
その波は、国家公務員試験の頂点に君臨する総合職試験にまで及んだ。
専門試験を一切排し、基礎能力と論文のみで判定する「教養区分」が大幅に拡大された。
国家一般職試験と言われる試験でも、進が魂を込めて教えてきた憲法や民法、行政法といった知識系科目で受ける受験生が大きく減少した。
「もう、重たい法律の知識を何百時間もかけて詰め込む時代は終わった」
それが、採用側の冷徹な総意だった。
【物理的に奪われる居場所】
「伊崎先生、大変申し上げにくいのですが……」
ある日、予備校の事務所に呼び出された進は、営業担当者から非情な通告を受けた。
「来期から、専門法律科目の講義コマ数を『半分以下』に削減することになりました。大学側の正課講座でも、専門試験対策を廃止してSPI対策の講座に一本化する動きが急増しておりまして……。先生にご担当いただく法律科目の時間枠が、物理的に確保できないのです」
「半分……ですか」
進は言葉を失った。
進の武器は、徹底的に練り上げた法的思考力と、それを不器用な学生に届けるための「超訳」の技術だ。
だが、試験自体が法律知識を求めなくなった今、その武器を振るうべき戦場そのものが、目の前から急激に消滅しようとしていた。
かつてあれほど誇りを持って立ち、自分のアイデンティティそのものだった教壇が、物理的に奪われていく。
大学のパンフレットから「法律専門講座」の文字が消え、代わりに「誰でも受けられるSPI対策!」という安易なポップが並ぶのを見るたび、進の胸は締め付けられるような痛みに苛まれた。
「……僕が人生をかけて磨き上げてきた民法や行政法の講義は、もう、この社会には必要とされていないのだろうか」
京都市郊外のアパートに帰った進は、リビングのソファに深く身を沈め、力なく呟いた。
「進君、そんなに真っ青な顔でどうしたの?」
美智子がハキハキとした声をかけながら、温かい緑茶を運んできた。
進は、握りしめた拳を震わせながら、昼間の通告を美智子に打ち明けた。
「美智子さん……法律のコマ数が半分になってしまった。試験が変わり、もう学生たちは、僕が教えるような難しい法律を勉強しなくても公務員になれる時代になったんだ。僕の居場所が、どんどん消えていく……」
進の告白を聞いた美智子は、お茶の湯呑みをテーブルにコトッと置くと、進の前に膝をついて、その大きな瞳でじっと進の顔を見つめた。
「進君。そんなの、試験を作るお偉いさんたちが、おバカさんなだけだよ!」
「おバカさん……?」
「そうだよ!法律のことも知らないで役所の職員さんになるなんて、お仕事で困るのはその子たちじゃない! 進君が教えてたのは、ただの暗記の勉強じゃなくて、仕事で使える法律でしょ? それを『いらない』なんて言うのは、そのお偉い人たちが変なのよ!」
美智子は怒ったような口調で言ったが、すぐにその表情を和らげ、進の冷たくなった手を両手で包み込んだ。
「でもね、進君。お教室のコマ数が半分になっても、進君が世界一の先生だってことは、変わりないよ! 誰も教えてくれないなら、進君の授業を受けに来る数少ない生徒の人たちは、もっと進君のことを頼りにするはずよ。だから、そんな悲しい顔しないで。私はいつだって、進君の味方だから!」
美智子の、全肯定の励まし。
そのぬくもりに、進は深く息を吐き出し、胸の奥のつかえが少しだけ軽くなるのを感じた。
「……そうだね。たとえ求められる席が半分になろうとも、僕の講義を必要としてくれる学生がいる限り、僕はそこにすべてをかけるべきだね」
「そうよ!がんばろう!」
美智子の笑顔に、進は何とか気力を取り戻し、再び前を向く決意を固めた。




