第3章 不慣れなオンライン配信でのミス
【痛恨のミスと、独りの聖域】
しかし、第一回のオンライン講義が無事に終了した数時間後、鳴滝の自宅に戻った進のスマートフォンに、予備校の担当者から一本の電話が入った。
「はい、伊崎です。……ええ、配信の手応えはありました。……え?」
進の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「あの……大変申し上げにくいのですが、画面の『レコーディング(録画)』ボタン、押されていましたでしょうか……?」
進は絶句した。
欠席者用のオンデマンド録画。
デジタルに不慣れな自分があれほど事前に注意し、段取りを確認していたはずの、そのたった一押しが、緊張のあまり完全に抜け落ちていたのだ。
「……申し訳ない。完全に私のミスです。すぐに対応を考えます」
電話を切り、ソファに頭を抱えて崩れ落ちた進に、美智子が慌てて駆け寄った。
「進君、どうしたの? そんな、警察に捕まったみたいな顔して!」
「美智子さん……やってしまった。録画ボタンを押し忘れたんだ。欠席した学生たちのための動画が、どこにも残っていない。僕の不手際で、彼らの貴重な一回分を無駄にしてしまった……」
あまりの情けなさに肩を震わせる進の前に、美智子は両膝をついて座り、その大きな瞳で進の顔を覗き込んだ。
「進君、録画を忘れたなら、もう一回教室へ行って、最初からお話ししてくればいいじゃない!」
「しかし、もう生徒は誰もいないんだよ? 誰もいない空っぽの部屋で、パソコンのレンズに向かって、もう一度あの2時間の講義をやれというのかい? 別途報酬は出してくれるそうだが、自分のミスでそんなお金をもらうなんて、講師としての自尊心が……」
「自尊心なんて、どうでも良いじゃない!」
美智子は進の言葉をハキハキとした大声で遮った。
「お金のためにやるんじゃないでしょ! 録画を待ってる、風邪をひいちゃったり用事があったりした生徒の人たちのためにやるんでしょ! 目の前に誰もいなくたって、画面の向こうには、進君の講義を首を長くして待ってる子たちがたくさんいるのよ!その子たちのためにがんばるって決めたのは、進君じゃない!」
美智子の真っ直ぐな、一点の曇りもない叱咤。
進はハッと息を呑んだ。
美智子の言う通りだった。
誰もいないからといって、モチベーションを下げるなど、プロの専任講師として言語道断だ。
「……ありがとう、その通りだよ。僕は明日、誰もいない聖域で、最高の一礼をしてくるよ」
数日後、進は再びあの配信用の別室にいた。
本来の受講生たちはすでに、それぞれの大学の学内講座ごとに設定された別日程で待機している。
目の前には誰一人いない。
「欠席者用録画」のためだけの、孤独な撮り直しだ。
「気まずいな……」と、開始前には誰もいない画面に向かって深く一礼した進だったが、一度プレゼンターのライトを点灯させれば、その魂に一瞬でプロのスイッチが入った。
レンズ越しに届ける鮮やかな図解には、かつて大教室のスクリーンに映していたものと全く同じ、いや、それ以上の圧倒的な情熱が宿っていた。
(たとえ今、この瞬間に見ている学生がいなくとも、後でこれを再生する誰かの、絶対的な『盾』になるんだ)
密閉された小さな別室から、進の凛とした声は再び、インターネットの回線を通じて近畿、北陸、そして瀬戸内を越えた四国へと、力強く響き渡っていった。
【講義を終えて聴くカーペンターズ】
完璧なクオリティで撮り直しの段取りを終え、配信機材の熱がまだ残る体を冷ますように、進は阪急淡路駅の改札を抜けた。
向かったのは、講師としての足跡が幾重にも刻まれた、大阪市東淀川区の淡路本町商店街だ。
頭上の高いアーケードからは、夕暮れの空気の中に、優しく、どこか切ないメロディが有線放送から降ってきていた。
それは、Carpentersの『Yesterday Once More』だった。
カレン・カーペンターの伸びやかで、少し哀愁を帯びた歌声が、昭和の面影を色濃く残す商店街の雑踏に心地よく溶け込んでいく。
進はゆっくりと歩を進めた。
カレンの口ずさむようなリズムに合わせて歩きながら、進の頭には、さきほど画面の向こう、レンズの向こう側で確かに繋がった全国の受験生たちの光景が浮かんでいた。
大阪市淡路という、大阪の一角にある小さな配信室にいながら、自分の声は今、インターネットという新しい橋を通じて、高知の山あいや金沢の街角にいる、まだ見ぬ受講生の手元へとダイレクトに届いているのだ。
かつて自分が誇りに思っていたあの大教室よりも、今の自分の声はずっと広く、それでいて、一人ひとりの孤独な机に寄り添うように届いている。これこそが、新しい教育の形なのかもしれない。
「……悪くないな」
ふと足を止め、進はすでにシャッターの閉まった古い文房具店のショーウィンドウに映る、自分の姿を見た。
コロナ禍という未曾有の荒波に揉まれ、黒板を奪われたときは、世界の終わりかのように途方に暮れた。デジタルの壁にぶつかり、録画ミスをして激しく落ち込みもした。
しかし、今こうして美智子の言葉を胸に、カーペンターズを聴きながら歩く夜道は、かつて大教室の壇上にいた頃よりも、ずっと視界が広く、世界が開けているように感じられた。
失われた昨日(Yesterday)を愛おしく懐かしむ歌を聴きながら、伊崎進が見据えていたのは、画面の向こう側に広がる「明日」の未来を一生懸命に生きようとしている、あの愛すべき受験生たちの姿だった。
進は一つ、夜の空気を深く吸い込むと、美智子の待つ鳴滝のアパートへと向かって、かつてないほど軽やかな足取りでアーケードの先へ一歩を踏み出すのだった。




