第2章 起死回生
【京都の夜、乾いた足元】
美智子の力強い言葉に励まされ、なんとか精神的な気力を取り戻した進。
しかし、現実の「飢え」は冷酷に牙を剥き続けていた。
完全に講義の段取りが止まった個人事業主の口座残高は、目に見える速さで底へと向かっていった。
夜、京都市郊外のアパートで一人、通帳の数字を見つめる進。
進の脳裏に、かつて奨学金の返済に追われ、督促状の「強制徴収」という無機質な四文字に震えたあの若き日の冷気が、再び足元から忍び寄ってきた。
「進君、また頭を抱えて、通帳を睨みつけてる。そんなにじっと見ても、数字は増えないよ!」
美智子がハキハキとしたイントネーションで語りかけながら、小ぶりの塩おにぎりを差し出した。しかし、進の表情は暗いままだった。
「このままだと、あと数ヶ月で生活の段取りが完全に破綻してしまう。教壇に立てない僕には、お金が生み出せないんだ」
進が深く溜息をつくと、美智子はフンと鼻を鳴らし、進の前に身を乗り出した。
「もう、弱虫の進君に戻っちゃダメ! 昔の進君ならおろおろするだけだったかもしれないけど、今の進君には法律の知識があるじゃない!」
美智子の真っ直ぐな叱咤が、進の頭をガツンと殴った。
「……そうだ。僕には、長年磨き上げてきた法知識がある」
進はハッと目を見開いた。
政府から発表されたばかりのコロナ困窮者向けの支援施策を、すぐさま調べ始めた。
多くの国民が複雑な申請要件や膨大な添付書類に混乱し、途方に暮れる中で、進は迷うことなく「持続化給付金」の申請手続きを進めた。
確定申告書、売上の急減を示す帳簿。
一枚一枚の書類を、かつて受講生の論文答案を添削したときのような正確さで整えていく。
数週間後、スマートフォンの通知が静かに鳴った。
画面に表示された、口座に振り込まれた「給付金」の数字。
「進君! 画面がピカピカ光ったよ」
美智子が覗き込む中、進は静かにスマートフォンの画面を伏せ、深く息を吐き出した。
「……救われたな。手続きを踏んだことで、社会のシステムが僕を一人の生活者として認めてくれた。かつて母が、あるいは鹿沢さんが、法を知らなかったゆえに受けられなかった『公的な助け』が、今、手元に届いたよ」
「ほらね! 進君は国からちゃんとお金がもらえた。もらえると思ってたよ!」
美智子は笑いながら、進の背中をポンと叩いた。
【予期せぬ「沈黙」と再起の儀式】
季節が巡り、2021年の初夏。
ようやく予備校側から、一通の「攻め」のメールが届いた。
> 【重要】オンライン講義(ZOOMライブ配信・オンデマンド)配信開始決定のお知らせ
「進君、すごい! お仕事のメールが来たね! オンラインだって!」
美智子がスマートフォンの画面を指さしてハキハキと喜んだが、アナログの極致で生きてきた進の表情は、どこか硬かった。
「オンラインか……。これは僕にとって、未知の戦場、いや、新たな難題だよ」
進が向かったのは、予備校の離れに急造された、窓のない配信専用の別室だった。
そこには学生の姿も、あの慣れ親しんだ巨大な黒板もない。
あるのはパソコンと、使い慣れたプレゼンター(書画カメラ)、そして無機質なモニターだけだ。
「ええと、まずは落ち着いて……ZOOMを立ち上げて。この『ミーティングを開始』を、マウスでクリック、と……」
誰もいない密室で、進はブツブツと呟きながら、震える手元で一つひとつの手順を確認した。
画面に自分の顔が映り、マイクのインジケーターが音を拾って激しく振れる。
次に、レジュメを映すプレゼンターの映像を画面共有する。
かつてチョーク一本で大教室の世界を支配した男が、今はマウスのポインタを動かすだけで、額に大粒の汗を浮かべていた。
「よし、配信開始だ……」
マイクに向かって声を張り上げる。
最初は虚空に向かって話しているような奇妙な感覚だったが、パソコンの画面右端にあるチャット欄に、突如として文字が躍った。
『伊崎先生! お待ちしていました!』
『画面バッチリ見えてます、頑張ります!』
「……!」
進はレンズの向こう側に、確かに息づく何百もの受験生たちの熱気を捉えた。
アナログからデジタルへ、段取りの壁を乗り越えた瞬間だった。
とりあえず、乗り切った。
進は満足感に満ちていた。
しかし、このあと、進には予想だにしなかった波乱が待ち受けていたのだった。




