第1章 愛でコロナを超えられる?
【2020年初春、暗転】
2020年初春。
あの賑やかだった大学キャンパスの喧騒も、受講生たちの熱い視線も、目に見えないウイルスの影によって、あまりにも呆気なく、そして残酷に断ち切られた。
もともと、伊崎進の日常において、緊急時以外にスマートフォンのベルが鳴ることはほとんどなかった。
予備校や大学との業務連絡は、すべてメールやLINEの機能的なテキストで完結する――それが効率的な進の「段取り」だったからだ。
だが、その静かな端末が、これほどまでに持ち主の心を抉る「沈黙の武器」になるとは、進は夢にも思っていなかった。
春の穏やかな陽光が虚しく差し込む鳴滝の自宅で、進が血の気の失せた顔で見つめていたのは、受信トレイを埋め尽くしていく【重要】【中止】【延期】という無機質な文字列の羅列だった。
【重要】春学期・学内公務員講座の全面休講、および講師派遣見合わせのお知らせ
> 拝啓
> 貴殿におかれましては……今般の新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、春学期の学内講座はすべて休講と決定いたしました。それに伴い、前期の講師派遣を全て見合わせることとなります――
一通の通知が届くたびに、進の手帳のスケジュールをビッシリと埋めていた「出講予定」の黒い文字が、まるで消しゴムで消されるように、冷徹な白地へと塗りつぶされていく。
滋賀の草津、京都、大阪梅田や難波。
それぞれの教室で、進の講義を待っているはずだった何百もの学生たちの瞳が、一瞬にして、果てしなく遠い彼方へと遠のいていった。
「……仕事が、完全に消えたな」
ぽつりと言葉を漏らした進の手は、かすかに震えていた。
年中平均して仕事が詰まるようになり、公務員講師としての頂点を極めつつあった矢先の、奈落だった。
【地球が止まった日】
独り言のように呟いた進の背後に、美智子が静かに近づいてきた。
彼女は進の横顔と、画面に並ぶ「中止」の文字をじっと見つめ、それから進の力なくダラリと垂れ下がった肩に、自分の小さな手をそっと置いた。
「進君。また、あの時みたいだね。1995年の、あの時みたい」
美智子のハキハキとしたいつもの声は少し震えていたが、そこには阪神・淡路大震災という巨大な災厄を、共に潜り抜けてきた者だけが持つ、不思議な落ち着きと確かな強さがあった。
進は画面を見つめたまま、重く首を振った。
「あぁ。でも、あの時とは決定的に違う。震災の時は、一歩外へ出れば動いている世界があった。僕を求めてくれる仕事も、どこかに残っていた。……だけど今度は、世界のどこにも逃げ場がないんだ。まるで、地球ごとすべての段取りが止まってしまったみたいだ」
「……大丈夫だよ、進君」
美智子は進の肩をぎゅっと抱きしめるようにして、耳元で真っ直ぐに言い放った。
「あなたはね、何もないところからでも、いつでも自分の頭で考えて、何かを見つけてきた人じゃない! 定時制高校でも、塾を辞めた時も、進君はいつだって自分の足で歩いて、私を安心させてくれたもん。だから、今回だって絶対におしまいになんてならないわ!」
美智子の不器用で、しかし100%の信頼がこもった励まし。
進は、その言葉の温もりを胸の奥で必死に噛み締めながらも、プレゼンターの眩しいライトが突然消え、完全に暗転したステージの上に、たった一人取り残されたような深い恐怖に耐えていた。
【長引く災厄、削られる貯え】
しかし、美智子の祈りも虚しく、見えないウイルスの猛威は長引き、事態は悪化の一途を辿っていった。
「数ヶ月耐えれば収まるだろう」という世間の甘い観測は完全に裏切られ、夏が過ぎ、秋を迎えても、大学の門は閉ざされたままだった。
進は個人事業主であり、独立した個人契約の講師だ。講義を行わなければ、1円の収入も発生しない。
予備校の通信授業の収録がわずかにあるのみで、かつて週に何十コマと飛び回っていた進の稼働率は、ほぼゼロにまで落ち込んでいた。
追い打ちをかけるように、通帳の残高は、生活費とアパートの家賃によって毎月確実に、削り取られるように減っていく。
かつて「1日15時間、365日休まずに働く」ことで自分の存在価値を証明してきた進にとって、何もすることがなく、社会から必要とされていないかのように鳴滝の部屋に籠もり続ける毎日は、精神的な拷問に等しかった。
「今日も、メールは何も来ないな……」
朝一番にパソコンを開き、静まり返った受信トレイを確認する。
それがこの数ヶ月の、進の虚しいルーティンになっていた。
職業人としてどれほど緻密なロジックを組み立てようとも、「感染症の蔓延」という理不尽な超法規的現実の前には、何の段取りも通用しない。
完璧に磨き上げてきた民法や行政法の知識が、机の上で虚しく埃をかぶっていく。
じわじわと、しかし確実に、伊崎進という男の誇りと精神は、終わりに見えない静かな大災厄の渦中で、極限まで追い詰められようとしていた。
家庭生活は、恋人どうしとは違う。
生計を維持しないといけないのだ。
それが、進と美智子のラブストーリーの新しい章の課題だった。




