表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/65

第4章 またしても救えない人達

【潰えた慈悲の計画】


 だが、また新しい波乱の波は、すぐさま次の形で進の元へと押し寄せてきた。

 その直後、今度は別の仏教系大学から、公務員試験対策講座の緊急の依頼が舞い込んだのだ。


 その大学は、僧侶を養成するための長い歴史と伝統を持つ学科を擁していた。

 かつてであれば、そこを卒業すれば実家や各地の提携寺院へ、住職や副住職としての席が当然のように約束されていた。

 しかし、「檀家離れ」や「寺院経営の悪化」という容赦のない時代の荒波は、その静謐なる聖域をも無慈悲に侵食していた。


 「大学の出口(就職先)を確保しなければ、学科の存続に関わります。全員を寺へ就職させるのは、もう限界なのです。公務員試験に合格させ、市役所や地元の役場への就職率を上げることで、なんとか若者たちの未来を繋ぎ止めたい」


 大学の教学担当が放った悲壮な決意に、進の心が動いた。

 進は超過密なスケジュールをなんとかやりくりし、予備校の担当者と打ち合わせを重ねた。

 そして、政治・経済や人文科学、そして公務員試験の天敵である「数的処理」「文章理解」のカリキュラムを、その大学のために一からオーダーメイドで組み上げた。

 仏教の静かな教えとは対極にあるような、極めて世俗的で実利的な「生き残るための戦術」を詰め込んだ段取りだった。


 しかし、この計画もまた、あまりにも無残な結末を迎えることになる。

 大学側が多大な予算を投じて募集をかけたにもかかわらず、説明会の教室に集まった受講生は、驚くべきことに「ゼロ」だったのだ。


 学生たちの言い分は、冷ややかで頑ななものだった。

「僕たちは、お坊さんになるためにこの大学に入学したんです。今さら数的処理のパズルや英語、政治・経済なんて勉強したくない」


 さらに事態を悪化させたのは、彼らの実家――つまり全国各地の寺院を守る、頑固な現職住職(父親たち)からの、大学本部への猛烈なクレームの嵐だった。

 「我が子に仏教の勉強をさせるために大学へ預けたのに、なぜ市役所の木端役人になるための世俗の試験勉強をさせるのか!」

 「宗門の伝統を大学自ら貶める気か! 確実に寺へ就職できるという約束はどうなった!」


 聖職への高いプライドと志。

 そして、目を背けられない雇用情勢の冷酷な現実。

 その歪みを埋めるための「公務員試験」という大人の解は、当事者である若者たちの困惑と、古い組織のプライドの前に、一歩も前へ進むことができずに完全な白紙へと潰えた。


【渇望の不在】


 誰もいない、静まり返った学内講座用の大教室。

 進は、ポツンと残された黒板の前で重い鞄を肩に食い込ませながら、窓の外の夕暮れを見つめていた。

 その脳裏に、かつて自分が歩んできた、あまりにも泥臭い過去の記憶が鮮烈に蘇っていた。


 定時制高校の寮で過ごした、あの暗く、冷たい夜。

 昼間は働き、夜は学校へ行く。

 生活のために、寮の各部屋を回って空き瓶を集めては、そのわずかな小銭をかき集めて大学の入学金に充てた。

 静まり返った自習室の裸電球の下で、睡魔でかすむ目をこすりながら、一字一字、世界史や英語、古文の知識を必死で頭に刻み込んでいた。


 あの頃の自分を突き動かしていたのは、誰かに用意された見栄えの良い「看板」でも、至れり尽くせりで手渡された「出口」でもなかった。

 (ここではないどこかへ、自分の力で行くんだ。自分の人生を、自分の足で掴み取るんだ)

 その圧倒的な「渇望」があったからこそ、進は飢えた獣のように自らペンを取り、自らの足で暗闇の中を歩き出したのだ。


 「……歩かせることはできても、歩きたいと思わせることは、僕にはできないのか……」


 夕暮れのキャンパスを、一人歩く進の背中に、春の冷たい風が吹き付けた。

 どれほど優れた「講義」という武器を用意しても、予備校の講師が救えるのは、せめて「戦う意志」を持って自ら戦場に現れた者だけなのか。

 教育者としての深い無力感と孤独が、進の胸を締め付ける。


 しかし、京都のアパートに帰り、玄関を開けると、そこには「進君、お帰りなさい!」と、いつでも自分を全肯定してくれる美智子の弾んだ声があった。


 進の目は、もう落胆の影を振り払っていた。

 救えない者を嘆く時間は、1秒だって惜しい。

 今、自分の講義を信じて予備校の教室で目を輝かせている、あの受講生たちのために全力を尽くす。

 「今できることを、目の前のたった一人のためにしっかりやる。それがすべてだ」

 進の鋭いリーガルマインドの瞳は、美智子の笑顔に支えられながら、すでにその先にある「合格」の段取りをしっかりと見据えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ