第4章 またしても救えない人達
【潰えた慈悲の計画】
だが、また新しい波乱の波は、すぐさま次の形で進の元へと押し寄せてきた。
その直後、今度は別の仏教系大学から、公務員試験対策講座の緊急の依頼が舞い込んだのだ。
その大学は、僧侶を養成するための長い歴史と伝統を持つ学科を擁していた。
かつてであれば、そこを卒業すれば実家や各地の提携寺院へ、住職や副住職としての席が当然のように約束されていた。
しかし、「檀家離れ」や「寺院経営の悪化」という容赦のない時代の荒波は、その静謐なる聖域をも無慈悲に侵食していた。
「大学の出口(就職先)を確保しなければ、学科の存続に関わります。全員を寺へ就職させるのは、もう限界なのです。公務員試験に合格させ、市役所や地元の役場への就職率を上げることで、なんとか若者たちの未来を繋ぎ止めたい」
大学の教学担当が放った悲壮な決意に、進の心が動いた。
進は超過密なスケジュールをなんとかやりくりし、予備校の担当者と打ち合わせを重ねた。
そして、政治・経済や人文科学、そして公務員試験の天敵である「数的処理」「文章理解」のカリキュラムを、その大学のために一からオーダーメイドで組み上げた。
仏教の静かな教えとは対極にあるような、極めて世俗的で実利的な「生き残るための戦術」を詰め込んだ段取りだった。
しかし、この計画もまた、あまりにも無残な結末を迎えることになる。
大学側が多大な予算を投じて募集をかけたにもかかわらず、説明会の教室に集まった受講生は、驚くべきことに「ゼロ」だったのだ。
学生たちの言い分は、冷ややかで頑ななものだった。
「僕たちは、お坊さんになるためにこの大学に入学したんです。今さら数的処理のパズルや英語、政治・経済なんて勉強したくない」
さらに事態を悪化させたのは、彼らの実家――つまり全国各地の寺院を守る、頑固な現職住職(父親たち)からの、大学本部への猛烈なクレームの嵐だった。
「我が子に仏教の勉強をさせるために大学へ預けたのに、なぜ市役所の木端役人になるための世俗の試験勉強をさせるのか!」
「宗門の伝統を大学自ら貶める気か! 確実に寺へ就職できるという約束はどうなった!」
聖職への高いプライドと志。
そして、目を背けられない雇用情勢の冷酷な現実。
その歪みを埋めるための「公務員試験」という大人の解は、当事者である若者たちの困惑と、古い組織のプライドの前に、一歩も前へ進むことができずに完全な白紙へと潰えた。
【渇望の不在】
誰もいない、静まり返った学内講座用の大教室。
進は、ポツンと残された黒板の前で重い鞄を肩に食い込ませながら、窓の外の夕暮れを見つめていた。
その脳裏に、かつて自分が歩んできた、あまりにも泥臭い過去の記憶が鮮烈に蘇っていた。
定時制高校の寮で過ごした、あの暗く、冷たい夜。
昼間は働き、夜は学校へ行く。
生活のために、寮の各部屋を回って空き瓶を集めては、そのわずかな小銭をかき集めて大学の入学金に充てた。
静まり返った自習室の裸電球の下で、睡魔でかすむ目をこすりながら、一字一字、世界史や英語、古文の知識を必死で頭に刻み込んでいた。
あの頃の自分を突き動かしていたのは、誰かに用意された見栄えの良い「看板」でも、至れり尽くせりで手渡された「出口」でもなかった。
(ここではないどこかへ、自分の力で行くんだ。自分の人生を、自分の足で掴み取るんだ)
その圧倒的な「渇望」があったからこそ、進は飢えた獣のように自らペンを取り、自らの足で暗闇の中を歩き出したのだ。
「……歩かせることはできても、歩きたいと思わせることは、僕にはできないのか……」
夕暮れのキャンパスを、一人歩く進の背中に、春の冷たい風が吹き付けた。
どれほど優れた「講義」という武器を用意しても、予備校の講師が救えるのは、せめて「戦う意志」を持って自ら戦場に現れた者だけなのか。
教育者としての深い無力感と孤独が、進の胸を締め付ける。
しかし、京都のアパートに帰り、玄関を開けると、そこには「進君、お帰りなさい!」と、いつでも自分を全肯定してくれる美智子の弾んだ声があった。
進の目は、もう落胆の影を振り払っていた。
救えない者を嘆く時間は、1秒だって惜しい。
今、自分の講義を信じて予備校の教室で目を輝かせている、あの受講生たちのために全力を尽くす。
「今できることを、目の前のたった一人のためにしっかりやる。それがすべてだ」
進の鋭いリーガルマインドの瞳は、美智子の笑顔に支えられながら、すでにその先にある「合格」の段取りをしっかりと見据えていた。




