第3章 講師と予備校の限界を知る時
【10分間の真剣勝負】
前回の私立大学で驚異的な合格実績を叩き出した伊崎進とその予備校の噂は、関西の大学関係者の間で瞬く間に広がっていった。
それを受け、大阪府内にある私立大学から、新たな学内公務員講座の打診が舞い込んだ。
しかし、予備校の会議室で行われた打ち合わせの席で、大学の教務担当者が真顔で放った言葉は、進がこれまでの長い講師人生で直面したどの難問よりも奇妙で、理不尽なものだった。
「伊崎先生、大変恐縮なのですが……学内ガイダンスは『10分ちょうど』で終わらせてください」
「10分、ですか?」
進は思わず手元の資料から顔を上げた。
国家公務員や地方自治体といった公務員試験の複雑な全体像をきちんと語るには60分必要だ。
憲法・民法・数的処理といった膨大な科目な特性、合格までの年間スケジュールを過不足なく伝えるには、どれだけ早口で端折っても最低60分はかかるのである。
警察・消防、市役所試験なら、もう少し短く話せる。
科目数が少ないからだ。
それでも、10分では無理だ。
30分は必要だろう。
担当者が言う。
「それ以上になりますと、彼らの集中力がどうしても持たないのです。5分を過ぎたら私語が始まり、10分を越えたら、誰も聞いていないと思います…」
担当者は悪びれる風もなく、至極真面目にそう言い切った。
無茶な話だ。
しかしそれでも、依頼に応えるのが講師の仕事だ。
迎えたガイダンス当日。
大教室の壇上に立った進の前に広がっていたのは、異様な光景だった。
周りから言われて、仕方なく来てやったという雰囲気。
法律や経済、世界史といった難しそうな科目の話を一言でも口にすれば、誰も受講してくれないだろう。
そんな確信があった。
進は喉を枯らさんばかりの声を響かせ、極限まで削ぎ落とした「出口」の選択肢だけを叩きつけた。
「皆さん、最近の公務員試験は、簡単な内容のものが増えています。面接重視なんです。勉強が苦手でも大丈夫です」
なんとか学生の興味を惹きつけようと、命を削るようにして言葉を投げかける進。
しかし、教室の光景は凄惨だった。
前列の数人を除き、大半の学生は最初から机にベッタリと顔を伏せて深い眠りについていた。
スマートフォンの画面を堂々と弄る者、隣の席と平然と私語を交わす者。
何より進に強烈な眩暈を覚えさせたのは、ノートを取る者が皆無であることだった。
それどころか、鞄から筆記用具すら出していない者が大半だった。
ペンすら持っていない。
進には、ひたすら辛い時間だった。
「それでも、何とか伊崎先生を始め、多くの先生がたのお力で開講に漕ぎ着けたいのです」
大学側の懇願を受け、予備校側でも連日会議が繰り返された。
「これほど基礎力が無い学生たちが相手では手がかかりすぎる。予備校の実績にも響く、お断りすべきだ」と突き放す営業社員と「何とか可能性を引き出すのが我々の仕事だ」と食い下がる社員。
議論は遅くまで平行線を辿り続けた。
【教育の限界点】
しかし数日後、大学の担当者から予備校の営業窓口へ一本の電話が入り、そこで漏らされた切実極まる一言が、予備校のスタッフ、そして進をも完全に絶句させた。
「……伊崎先生。実は、勉強ができる・できないという以前に、深刻な問題があります。彼らに、どうやって自主的に『受験申込書(願書)』を出させるか。そして、試験当日の朝、どうやって自分の足で『試験会場』まで行かせるか……。そのための具体的な声かけや、強制的に連れて行く方法を教えていただけないでしょうか」
その問いを聞いた瞬間、進の頭の中の思考回路が音を立てて停止した。
それは、教育や指導、あるいは講義という以前の問題だ。
「問題が解けない」「覚えられない」という次元ではなかった。
スタートラインに立つための、靴を履いてくれないのだ。
この大学の職員は、そんな最低限の意思決定を手取り足取り代行していた。
そうしなければ、彼らは動かないというのだ。
合格という対岸へ向かって「橋」を架ける以前に、彼らには橋に向かって一歩を踏み出そうとする意志そのものが欠けていた。
営業担当者は、受話器を耳に当てたまま、静かに、そして重く首を横に振った。
「……申し訳ありません。それは、私たちが予備校として提供できるサービスの範疇を完全に越えています」
あまりにも深い教育の限界点を前に、その大学での学内講座の計画は、一度も開講されることなく白紙へと戻った。
次々と舞い込む難題の数々に、進の心身には確実に見えない疲弊が蓄積していた。
【京都市郊外の夜、全肯定の灯火】
「進君、顔色が良くないよ。頭を使いすぎて、元気がぜんぶ抜けちゃったみたい」
夜の京都のアパート。
食卓に座り込んだまま、ぽつねんとスマートフォンの画面を見つめていた進に、美智子がハキハキとしたイントネーションで語りかけながら、温かいお味噌汁と、進の大好物である小ぶりの塩おにぎりを差し出した。
進は力なく微笑み、大学のガイダンスで見た「ペンを持たない若者たち」の話、そして願書すら自分で書けない学生たちへの無力感を、絞り出すような声で妻に打ち明けた。
「教壇に立って、あんなに強い眩暈を覚えたのは初めてだよ。僕たちがどれだけうまく講義のスケジュールを組んでも、相手に『歩きたい』という意志がなければ、それはただの押し売りに過ぎない。僕は一体、誰のために喉を枯らしているのだろうか……」
進が肩を落とすと、美智子は少しだけ怒ったように、大きなお皿をテーブルにドンと置いた。
そして、進の正面に座ると、そのやつれた顔をじっと見つめて力強く言った。
「進君、それはね、進君が優しすぎるからいけないの! お勉強を始める前に、ペンも持たないで眠っちゃうような子たちはね、進君がどんなに一生懸命にお話をしても、耳が最初から閉まってるから無理。それは進君のせいじゃなくて、その子たち自身の問題よ!」
美智子はハキハキとした声を居間に響かせ、進の手をぎゅっと握りしめた。
「あたしね、一度に一つのことしかできないけど、進君と結婚したいって思った時は、自分の足で一生懸命に歩いて進君のところへ行ったの。人はね、本当に変わりたい、ここから抜け出したいって思ったら、不器用でも絶対に自分でペンを握るはずなの。それもしないなら、進君が何を言っても無駄よ!」
美智子の、一切の迷いのない全肯定の励まし。
「その気が無いなら、無理に歩かせるのは無理」。
その冷酷な真理を、美智子は持ち前のハキハキとした真っ直ぐな言葉で、進の心の傷に優しく塗り込んでくれた。
「……そうだね、美智子さん。僕はまた、すべての人を救おうと驕っていたのかもしれないな。まずは、自分から靴を履こうとする受講生のために、僕の全エネルギーを注ぐべきなんだね」
「そうだよ! 進君の講義は世界一価値があるんだから、ちゃんとお席に座って待ってる良い生徒だけに、すればいいの!」
美智子の最高の笑顔に救われ、進の胸の奥の疲弊は、温かいお味噌汁とともにじんわりと溶けていくようだった。




