第2章 大学の酷い教室(後編)
【事務室の密談】
「単位が足りずに留年した学生が出た」
一大事だった。
事態を把握した大学側は、騒然となった。
その学生が進んでいた就職先は、大学にとって極めて重要なパイプを持つ大手企業である。
一人の留年によって内定が取り消されれば、今後の推薦枠や大学の広報という「看板」に大きな泥を塗ることになる。
公務員コースの担当教授と事務局長は、その講師を別室に呼び出し、密談が始まった。
「先生、追加の課題か何かを今から課して、評価を『可』にしていただくわけにはいきませんか。彼は大手の内定を勝ち取っている。お願い致します」
教授がいくら懇願しても、その講師の返答は、冷ややかだった。
「それは、おかしいでしょう。努力もしない者になんで単位を与えるんですか。真面目に勉強した、他の学生たちに、なんて説明するんですか。裏切りでしょう。規則に基づき、評価の変更は一切行いません」
「ですが先生! これで彼が留年すれば、内定は取り消しになります。 一人の若者の人生がかかっています」
事務局長が声を荒らげて詰め寄った。
しかし、講師は動じなかった。
「自業自得でしょう。ルールを守らなくても大人の都合で許されるなんて、絶対に思わせるわけにいきません」
【契約終了と、孤独な法廷闘争】
結局、その学生は一単位が足りずに留年が決まり、大手企業の内定は立ち消えとなった。
大学側が下した報復は、迅速かつ無慈悲なだった。
年度末、その厳格な講師に対し「教育方針の不一致」という名目で、来年度の雇用契約を更新しない旨の通告がなされた。
事実上のクビであった。
納得のいかない講師は、大学を相手取り、雇用契約の継続と講師としての地位確認を求める裁判を提訴した。
「大学は、教育の場ではなく、ただの『卒業証書販売所』に成り下がったのか」
法廷という孤独な場で、講師はたった一人で組織との闘いを始めた。
大学側は「講師の指導が硬直的であり、学生の学習意欲を減退させた」と主張した。
自らの正当性を掲げる大学。
どちらも必死だった。
進は、講師控室の片隅でこの騒動を、複雑な思いで見つめていた。
脳裏を過ったのは、かつて若き日の自分が、学習塾の経営方針に異を唱え、結果として減給処分に遭った時の、あの痛みだった。
そして今、目の前で起きている「正義」を貫こうとした者の追放。
大学という組織が、「看板」を維持するために、個人の教育的良心を簡単に切り捨てる現実。
ただ、今の進は、一概に大学側を批判しようとも思わなかった。
どちらか一方が完全な悪で、どちらかが完全な正義という単純な話ではない。
組織の長として、大学の「看板」を必死に磨いて学生を集め、経営を維持するのもまた、必要な仕事なのだ。
だが、その看板が示す中身のクオリティを守るのは、現場で学生と真っ直ぐに向き合う講師のプライドでもある。
進は、重い頭を抱えながら沈み込んでいた。
【美智子の全肯定、泥臭い現場の灯火】
「進君、また難しい顔をして」
夜の京都市郊外のアパート。
机の上で大学の講義資料を前に考え込んでいた進に、美智子がハキハキと語りかけながら、温かいほうじ茶を差し出した。
進は、大学で起きた講師のクビと裁判の話、そして「看板」と「現場の良心」の狭間で歪む教育の現状を、ぽつりぽつりと美智子に打ち明けた。
「僕がかつて塾を追われた時のことと、どうしても重なってしまってね……。組織の看板を守りたいのも分かる。でも、講師の気持ちも、痛いほど分かるんだ。社会人の仕事って、こんなにも割り切れないものなんだね」
進が溜め息をつくと、美智子は少しだけ唇を尖らせて、進の顔をじっと見つめた。
そして、いつものようにハキハキと、しかし世界で一番優しい声で言った。
「進君。そんなこと考えても仕方ないよ」
「そうだけど……?」
美智子が続ける。
「 看板がどうとか、裁判がどうとか、そんなの進君が悩むことじゃないよ。大学の偉い人は看板を守るのがお仕事だし、クビになっちゃった先生は自分の正義を守るのがお仕事でしょ? だったら……」
美智子は進のゴツゴツとした手を、自分の両手でぎゅっと包み込んだ。
「進君のお仕事は、何なの?」
「僕の、仕事……」
「進君のお仕事はね、お教室でカップラーメンを啜ってやる気をなくしちゃってる、不器用な子たちを、出来るだけたくさん導いてあげることでしょ? 大学のためでも、誰かの正義のためでもなくて、進君の講義を待ってるその子たちのために、毎日がんばってるんじゃない!」
美智子の真っ直ぐな言葉が、進の胸の霧を鮮やかに、一瞬で吹き飛ばした。
「進君はね、どっちが正しいかなんて、決めなくていいの。どっちの思いも分かっちゃう優しい進君だから、あの不器用な生徒の人たちも、ファンになってくれて、いっぱい内定が勝ち取れたんだよ。進君は、目の前にいる生徒たちの、世界一の味方でいてあげたら、それで100点満点なんだよ!」
理屈を超えた、純度100%の全肯定の励まし。
進は、包まれた手の温もりから、自分が本当に立つべき「現場の一線」を思い出した。
「……そうだね。どちらが正義かなんて、僕が答えを出す必要はないんだ。看板も、正義を貫くのもどっちも大事なこと。その間で一生懸命に生きようとしている若者たちの『橋』になることこそが、僕の仕事だ」
進の心から、静かに苦悩が消え去っていった。
答えの見つからない問いに向き合い、その狭間で揺れる学生の手を引くことこそが、社会人の仕事なのだと、進は改めて深く得心した。
「ありがとう、美智子さん。君のおかげで、また明日もブレずに教壇に立てるよ」
「ふふ、がんばってね、進君!」
美智子の笑顔に見守られながら、進は再び力強くペンを取った。
大学の看板がどうあれ、明日も教室の後列で迷える若者たちのために、最高に泥臭く、最高に美しい講義の段取りを、彼はノートに刻み始めるのだった。




