表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
54/66

第2章 大学の酷い教室(後編)

【事務室の密談】


 「単位が足りずに留年した学生が出た」

 一大事だった。

 事態を把握した大学側は、騒然となった。

 その学生が進んでいた就職先は、大学にとって極めて重要なパイプを持つ大手企業である。

 一人の留年によって内定が取り消されれば、今後の推薦枠や大学の広報という「看板」に大きな泥を塗ることになる。


 公務員コースの担当教授と事務局長は、その講師を別室に呼び出し、密談が始まった。


 「先生、追加の課題か何かを今から課して、評価を『可』にしていただくわけにはいきませんか。彼は大手の内定を勝ち取っている。お願い致します」


 教授がいくら懇願しても、その講師の返答は、冷ややかだった。


 「それは、おかしいでしょう。努力もしない者になんで単位を与えるんですか。真面目に勉強した、他の学生たちに、なんて説明するんですか。裏切りでしょう。規則に基づき、評価の変更は一切行いません」


 「ですが先生! これで彼が留年すれば、内定は取り消しになります。 一人の若者の人生がかかっています」


 事務局長が声を荒らげて詰め寄った。

 しかし、講師は動じなかった。


 「自業自得でしょう。ルールを守らなくても大人の都合で許されるなんて、絶対に思わせるわけにいきません」


【契約終了と、孤独な法廷闘争】


 結局、その学生は一単位が足りずに留年が決まり、大手企業の内定は立ち消えとなった。

 大学側が下した報復は、迅速かつ無慈悲なだった。

 年度末、その厳格な講師に対し「教育方針の不一致」という名目で、来年度の雇用契約を更新しない旨の通告がなされた。


 事実上のクビであった。

 納得のいかない講師は、大学を相手取り、雇用契約の継続と講師としての地位確認を求める裁判を提訴した。


 「大学は、教育の場ではなく、ただの『卒業証書販売所』に成り下がったのか」


 法廷という孤独な場で、講師はたった一人で組織との闘いを始めた。

 大学側は「講師の指導が硬直的であり、学生の学習意欲を減退させた」と主張した。

 自らの正当性を掲げる大学。

 どちらも必死だった。


 進は、講師控室の片隅でこの騒動を、複雑な思いで見つめていた。

 脳裏を過ったのは、かつて若き日の自分が、学習塾の経営方針に異を唱え、結果として減給処分に遭った時の、あの痛みだった。


 そして今、目の前で起きている「正義」を貫こうとした者の追放。

 大学という組織が、「看板」を維持するために、個人の教育的良心を簡単に切り捨てる現実。


 ただ、今の進は、一概に大学側を批判しようとも思わなかった。

 どちらか一方が完全な悪で、どちらかが完全な正義という単純な話ではない。

 組織の長として、大学の「看板」を必死に磨いて学生を集め、経営を維持するのもまた、必要な仕事なのだ。

 だが、その看板が示す中身のクオリティを守るのは、現場で学生と真っ直ぐに向き合う講師のプライドでもある。


 進は、重い頭を抱えながら沈み込んでいた。


【美智子の全肯定、泥臭い現場の灯火】


 「進君、また難しい顔をして」


 夜の京都市郊外のアパート。

 机の上で大学の講義資料を前に考え込んでいた進に、美智子がハキハキと語りかけながら、温かいほうじ茶を差し出した。

 進は、大学で起きた講師のクビと裁判の話、そして「看板」と「現場の良心」の狭間で歪む教育の現状を、ぽつりぽつりと美智子に打ち明けた。


 「僕がかつて塾を追われた時のことと、どうしても重なってしまってね……。組織の看板を守りたいのも分かる。でも、講師の気持ちも、痛いほど分かるんだ。社会人の仕事って、こんなにも割り切れないものなんだね」


 進が溜め息をつくと、美智子は少しだけ唇を尖らせて、進の顔をじっと見つめた。

 そして、いつものようにハキハキと、しかし世界で一番優しい声で言った。


 「進君。そんなこと考えても仕方ないよ」

 「そうだけど……?」

 美智子が続ける。

 「 看板がどうとか、裁判がどうとか、そんなの進君が悩むことじゃないよ。大学の偉い人は看板を守るのがお仕事だし、クビになっちゃった先生は自分の正義を守るのがお仕事でしょ? だったら……」


 美智子は進のゴツゴツとした手を、自分の両手でぎゅっと包み込んだ。


 「進君のお仕事は、何なの?」


 「僕の、仕事……」


 「進君のお仕事はね、お教室でカップラーメンを啜ってやる気をなくしちゃってる、不器用な子たちを、出来るだけたくさん導いてあげることでしょ? 大学のためでも、誰かの正義のためでもなくて、進君の講義を待ってるその子たちのために、毎日がんばってるんじゃない!」


 美智子の真っ直ぐな言葉が、進の胸の霧を鮮やかに、一瞬で吹き飛ばした。


 「進君はね、どっちが正しいかなんて、決めなくていいの。どっちの思いも分かっちゃう優しい進君だから、あの不器用な生徒の人たちも、ファンになってくれて、いっぱい内定が勝ち取れたんだよ。進君は、目の前にいる生徒たちの、世界一の味方でいてあげたら、それで100点満点なんだよ!」


 理屈を超えた、純度100%の全肯定の励まし。

 進は、包まれた手の温もりから、自分が本当に立つべき「現場の一線」を思い出した。


 「……そうだね。どちらが正義かなんて、僕が答えを出す必要はないんだ。看板も、正義を貫くのもどっちも大事なこと。その間で一生懸命に生きようとしている若者たちの『橋』になることこそが、僕の仕事だ」


 進の心から、静かに苦悩が消え去っていった。

 答えの見つからない問いに向き合い、その狭間で揺れる学生の手を引くことこそが、社会人の仕事なのだと、進は改めて深く得心した。


 「ありがとう、美智子さん。君のおかげで、また明日もブレずに教壇に立てるよ」


 「ふふ、がんばってね、進君!」


 美智子の笑顔に見守られながら、進は再び力強くペンを取った。

 大学の看板がどうあれ、明日も教室の後列で迷える若者たちのために、最高に泥臭く、最高に美しい講義の段取りを、彼はノートに刻み始めるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ