第1章 大学の酷い教室(前編)
【教室の異変、そして「看板」の重み】
親族との遺産紛争を乗り越え、ようやく京都市郊外のアパートに平穏な時間が戻ったのも束の間、進の講師人生には、また異なる地平からの「新たな苦悩」が忍び寄っていた。
公務員試験対策に軸足を移した進は、予備校の校舎だけでなく、大阪府内にある私立大学の学内正課講座――警察官や消防官を目指す学生を対象とした特殊な講義を任されるようになっていた。
だが、教壇に立った進の前にいたのは、かつて自腹で高い受講料を払い、背水の陣で予備校に通ってきていた受講生たちとは、明らかに毛色の違う若者たちだった。
やる気に満ちた瞳がある一方で、
「勉強は大嫌いだけど、親に言われてなんとなく公務員を目指している」
という、投げやりで弛緩した空気が教室の半分を占めていたのだ。
「行ってくるよ」
進の表情には覇気が無かった。
「大丈夫?」
美智子が心配そうに声をかける。
明らかに元気がない進。
進の顔色は悪かった。
ある日の講義中、進は教室の後方に異様な光景を見て、思わず絶句した。
大教室の最後列に座った学生が、あろうことか授業中に堂々と湯気を立て、カップラーメンを啜っていたのだ。
教室中に漂うジャンクな香りと、すする音。進の鋭い視線と目が合うと、その学生は気まずそうに容器を抱え、逃げるように教室を去っていった。
「……これが、大学の正課講座の現実か」
後日、大学の公務員コース担当教授と、予備校の営業担当者を交えた話し合いの席が設けられた。
教授は深く溜息をつき、進と営業担当者に頭を下げた。
「申し訳ない、伊崎先生。今後、あのような不適切な態度があれば、すぐに私に伝えてください」
教授の顔には、隠しきれない焦燥の色が混じっていた。
この大学は近年、高い退学率と休学率に激しく悩まされていたのだ。
強く叱りすぎれば学生は大学を辞めてしまう。
それは進や予備校の立場を悪くするだけでなく、教授自身の学内での立場にも泥を塗ることを、進は敏感に察した。
予備校の営業担当者が「しかし、厳しく指導しなければ合格実績は伸びません」と進言した。
すると、教授は苦渋に満ちた重い口を開いた。
「……仰る通りです。ですが、大学としては『こうした難関公務員の専門講座を学内で開講している』という事実自体が、受験生集めのための広報上の大きな売り、つまり『看板』なのです。極論を言えば、実際の合格者数よりも、講座を組んでいる体制そのものが重要なのですよ」
その言葉に進は、教育の現場が抱える別の種類の「歪み」を見た。
中身の実績よりも、外側の見栄えである「看板」を最優先する大学側の本音。
それでも進は、目の前の学生一人ひとりを、予備校の「実績のための駒」としても、大学の「看板のための背景」としても扱わなかった。
ラーメンを啜って迷走していたあの若者も、一人の不器用な人間として見つめ、彼らの泥臭い現実に届く独自の講義をぶつけ続けた。
「進君、大丈夫?最近、食欲ないよね」
美智子が声をかけた。
「そうかな」
進の気のない返事。
しかし、進は諦めていなかった。
(やる気のある学生はいる。彼らを絶対に受からせるのだ)
進は、粘り強く講義を展開し続けた。
結果は、周囲の冷ややかな予想を大きく裏切るものだった。
学生たちは試験当日まで進の言葉に必死にしがみつき、なんとこれまでの大学の過去実績を大幅に塗り替える、驚異的な内定者数を叩き出したのだ。
大学側は一転して手のひらを返し、喜悦に沸いてコースの増設を依頼。進の担当コマ数も飛躍的に増えていくこととなった。
看板が欲しかった大学、実績が欲しかった予備校。
だが、その狭間で必死に泥を啜りながら「公務員への橋」を渡りきったのは、あの不器用な若者たち自身だった。
【教育の矜持と「看板」の代償】
大学側が手のひらを返して歓喜し、進の担当コマ数が増設される一方で、その「光」の影では、教育現場の根幹を揺るがす深刻な亀裂が生じていた。
進と共に、その大学で別の文系科目を担当していた、ある一人の非常勤講師がいた。
彼は実務家出身の厳格な男で、「ルールは厳格に守らせること」こそが教育であると信じ、一切の妥協を許さない信念を持っていた。
その講師のクラスに、一人の不真面目な学生がいた。
彼は、早い段階で民間大手企業への就職内定を勝ち取っていた。
最初は公務員コースに在籍していたが、内定が出た途端に進路を変更し、公務員の勉強を完全に放棄したのだ。
そればかりか、講義への出席は極めて疎かで、課されたレポートも未提出。
期末試験の出来も目も当てられない惨状だった。
講師が再三にわたり警告を発したものの、学生は「僕はもう内定してるから、最後は大学がなんとかしてくれる」という甘えを隠そうともしなかった。
学期末、その厳格な講師が下した評価は、冷徹な「不可」。
当然の帰結として、その学生には単位が与えられなかった。
このことが、大学を激怒させた。
それは、後にとんでもない騒ぎに発展することになるとは、まだ誰も知らなかった。




