第6章 美智子の過去
【時計台の下の約束】
日曜日、午後2時。
商店街の入り口にある、少し色あせたからくり時計台の下。
進は、約束の10分前には到着していた。
ジーンズのポケットに手を突っ込むと、美智子のピンク色のパスケースがカチリと指先に触れる。
その度に、午前中の公衆電話での緊張が蘇り、喉の奥が小さく鳴った。
「伊崎君! お待たせーっ!」
人混みの向こうから、大きく手を振りながら走ってくる影があった。
白いブラウスに、サックスブルーのフレアスカート。
美智子は相変わらず、走る勢いのまま進の前で急ブレーキをかけ、危うくバランスを崩しそうになりながら、ペコリと頭を下げた。
「ごめんね、待った? 寮を出るときに、また靴紐が絡まっちゃってさ」
「いえ、僕も今来たところですから」
進はポケットからパスケースを取り出し、美智子に手渡した。
「はい。これ、上林先輩の学生証です」
「ああ、私の命の恩人! 本当にありがとう伊崎君!」
美智子はパスケースを胸に抱きしめ、心底ホッとしたように破顔した。
その曇りのない笑顔を見られただけで、男子寮の公衆電話で心臓をすり減らした甲斐があったと、進は密かに思った。
「よし、約束通り『琥珀』に行こう! 今日は私、奮発しちゃうんだから」
二人は並んで、日曜日の賑やかなアーケードを歩き出した。
歩調の早い進に合わせようとして、美智子がときどき小走りになる。
進はそれに気づき、それとなく自分の歩幅を少し狭めた。
【4人部屋の掟、それぞれの背景】
「純喫茶・琥珀」の、いつものえんじ色のボックス席。
カランと音を立てて運ばれてきたのは、綺麗な緑色のクリームソーダと、深い琥珀色のブレンド珈琲だ。
美智子はスプーンでアイスクリームを器用に(いや、やはり少しソーダをこぼしながら)すくい、口に運んで満足そうに息を吐いた。
「はぁ、生き返るなぁ……。実はさ、今日、寮の部屋の空気がすっごくピリピリしてて、息が詰まりそうだったんだよね」
「ピリピリ、ですか。女子寮は大変なんですか?」
進の問いに、美智子は少し声を潜めて頷いた。
定時制高校の男子寮は、同学年の4人部屋で、良くも悪くも気楽な雑魚寝の毎日だ。
しかし、女子寮の構造は違っていた。
「女子寮はね、1年生、2年生、3年生、4年生が1人ずつ入る『縦割り』の4人部屋なの。私は2年生だから上から3番目でしょ。一番上の4年生の先輩が、すっごく規律に厳しい人でさ。朝の点呼から掃除の分担まで、1ミリのズレも許さない感じなのよね」
「なるほど……。早川先輩みたいな人が部屋にいるようなものですか」
「あはは、早川さんなんて可愛い方だよ! 寮の先輩はもっと迫力があるもん。1年生の子なんて、緊張しすぎて置物みたいに固まっちゃって、絶対に先輩たちに意見なんてできないの。私も去年はそうだったから、気持ちは痛いほど分かるんだけど……。私、すぐ何かやらかすから、今日も朝から目立っちゃって」
美智子は困ったように笑ったが、その瞳に暗い陰りはなかった。
厳しい上下関係の中に身を置きながらも、彼女は彼女なりに、その不条理を受け入れて生きているようだった。
厳しい上下関係は男子寮も同じだ。でも、先輩と同じ部屋なんて、考えられなかった。
進は珈琲カップを回しながら、ふと思ったことを口にした。
「上林さんは……どうして、この定時制高校に来たんですか?」
いつもなら、他人のプライベートに踏み込むようなことは決してしない進だった。
しかし、美智子の前だと、不思議と自分の心が柔らかくなり、相手のことをもっと知りたくなってしまう。
美智子はクリームソーダのストローから唇を離し、少し遠い目をした。
「うーんとね、うちはちょっと複雑で。私が小学校に入る前にさ、お父さんとお母さんが離婚しちゃったの。私はお父さんに引き取られたんだけどね。お父さん、町工場で朝から晩まで必死に働いてるから、経済的にもあんまり余裕がなくて。だから、自分で働きながら高校に行ける定時制を選んだの」
サラリと言ってのけた美智子の言葉に、進は胸を突かれた。
小学校前の離婚。
父親との生活。
彼女のあの、どこか落ち着きがなく、いつも大慌てで何かをしている不器用さは、もしかしたら、幼い頃から母親の手を借りず、小さな手で一生懸命に自分の身の回りのことをこなそうとしてきた名残なのかもしれない。
「……そう、でしたか」
「伊崎君は? あ、嫌なら言わなくていいんだけどね!」
気を遣わせたと思ったのか、美智子が慌てて手を振る。
進は、静かに首を振った。
「僕も、同じようなものです。僕の母は、僕が幼い頃に亡くなりました。だから、自分の力で生きていかなければならないと思って、ここへ来ました」
二人の間に、モダンジャズの静かな旋律が流れる。
母を亡くした少年と、母と別れて育った少女。
形は違えど、二人はこの大阪の下町で、現世の不条理という泥の中に根を張り、自分の足で立とうともがいている同志だった。
【泥の中に咲く光】
美智子は、進のまっすぐな目を見つめ、それから嬉しそうに、けれど少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「そっか……。なんだか、伊崎君と私は、ちょっと似てるところがあるのかもね」
「似てますか? 僕は上林さんみたいに、周りを明るくすることはできません」
「そんなことないよ。伊崎君は、私がクリップをひっくり返したときも、パスケースを落としたときも、黙って助けてくれた。不器用な私を、バカにしないで、ちゃんと同じ目線で見てくれる。それって、すっごく優しいことなんだよ」
美智子の言葉が、進の凍てついた心を内側からじんわりと溶かしていく。
15歳の進にとって、自分の「生真面目さ」や「正論」は、他人を寄せ付けないための鎧だった。
しかし美智子は、その鎧の奥にある、傷つきやすい不器用な優しさを、まっすぐに見抜いていた。
「あ、時計、もう4時前だ! 今日は当番に当たってるの。戻ってまた寮の夕飯の準備手伝わなきゃ、4年生の先輩に怒られちゃう!」
美智子は伝票を掴み、大慌てで立ち上がった。
案の定、その拍子に、空になったクリームソーダのグラスがカタカタと揺れたが、今度は進がサッと手を伸ばしてそれを支えた。
「あはは、さすが伊崎君! ナイスフォロー!」
二人は笑いながら「琥珀」を後にした。
夕暮れが近づく商店街、女子寮へと続く道を、二人の自転車が並んで進む。
定時制高校の4人部屋に帰れば、また厳しい現実や、寂しい夜が待っている。
しかし、今の進の胸には、美智子がくれた温かい光が灯っていた。
(この人のことを、もっと支えたい。この人の笑顔を、ずっと見ていたい)
15歳の夏の風が、二人の横顔を優しく吹き抜けていった。




