第1章 片思いの始まり
【男子寮の夜風と、地下の撮影技師】
「純喫茶・琥珀」で過ごした日曜日の午後から数日。
進は夜の授業中も、教科書をめくる指が時折止まるようになっていた。
胸の奥に澱のように溜まったこの感情を、自分一人ではどう処理していいか分からない。
15歳の生真面目な頭脳は、恋という名の「答えのない数式」を前に、完全に立ち往生していた。
その日の深夜、男子寮の四人部屋。
窓の外からは、ねっとりとした大阪の夏の夜の気配が忍び寄っていた。
部屋にエアコンなどという文明の利器はない。
その代わり、壁に据え付けられた無骨な鉄製の吹き出し口から、地下のボイラー室を動力にした冷風が静かに吹き出していた。
蚊帳のない畳の上で、同室の仲間たちが二人生地の薄い布団に大の字になって眠りこけている。
進は寝返りを打ち、隣の敷布団で天井を見つめていた同期の男に、小声で話しかけた。
「……鶴畑、起きているか」
「ん……? ああ、伊崎か。どうした、珍しいな。お前が夜更かしなんて」
鶴畑は、春の部屋替えの抽選でたまたま同じ部屋になった男だった。
彼もまた進と同じく、高校が斡旋してくれた系列大学の図書館で働いている。
ただ、鶴畑の職場は、進がいる明るい「整理室」とは真逆の場所にあった。
図書館の最地下にある薄暗い「写真室」。
そこが彼の仕事場だ。
大学が所蔵する貴重な古文書や古典籍の劣化を防ぐため、一枚一枚特殊なカメラで撮影し、現像してレプリカ(複写版)を作成する。
それが鶴畑の割り当てられた事務補助業務だった。
毎日暗室で薬品の匂いに塗れているせいか、鶴畑はどこか達観した、聞き上手な男だった。
この定時制高校には、実に多様な職場が用意されていた。
図書館や女子寮といった学内組織だけでなく、大学が所有する実験農園での農作業、大学病院でのカルテ運び、さらには系列の新聞社の印刷工場で夜戦のように働く者もいた。
それらはすべて、高校が生徒たちのために斡旋してくれた「生きるための糧」だった。
普通の高校に受からず、この定時制高校に来る者もいたが、家庭の事情でここに来る者も多かった。
鶴畑も、複雑な家庭の事情があるみたいだ。
ただ、進はそれについては敢えて聞かない。
「……少し、相談があるんだ」
進は、冷風の音に紛れ込ませるようにして、胸の内を打ち明けた。
女子寮の上林美智子のことが、どうしても頭から離れないのだ、と。
鶴畑は遮ることなく、静かに話を聞いていた。
進が「落とし物を拾って、電話をかけた」という件まで話し終えると、鶴畑は暗闇の中で小さく笑った。
「なるほどな。あの『上林さん』か」
「知っているのか?」
進が思わず上半身を起こすと、鶴畑は「声を落とせよ」と手で制しながら続けた。
「上林さんの噂は聞こえてくるよ。あの人、背がちっちゃいだろ。150センチくらいしかないのに、いつも自分の体より大きいカバンを抱えて、廊下をトントントントンって早口で喋りながら走ってる。それに、ちょっと緊張すると、なんかこう、手が変な動きになるだろ? 悪い意味じゃなくてさ、とにかく目立つ人だからな」
進の脳裏に、麻紐を絡ませ、クリップをぶちまけて慌てていた美智子の姿が鮮明に浮かんだ。
その通りだった。彼女はいつだって、一生懸命すぎて目立ってしまうのだ。
【傷だらけの渡り鳥】
「でもな、伊崎」
鶴畑は少し声のトーンを落とし、壁の吹き出し口を見つめた。
「上林さん、あんなにいつも笑ってて明るいけど、結構苦労してるみたいだぞ」
「両親が離婚して、お父さんに引き取られたことは、本人から聞いた」
「それは知らなかったよ。ただ、あの人、この定時制の寮生活がどうしても嫌になって、今までに2回も寮を『脱走』してるんだってさ」
進は息を呑んだ。
「寮を出た? どこへ行くんだ」
「さあな。実家のお父さんのところに戻ったり、知り合いの家を頼ったりしたんじゃないか。女子寮って先輩と同じ部屋だろう。あのガチガチの上下関係が、どうしてもあの人の性分に合わなかったんじゃないかって、先輩たちが言ってた。それでも、学校を辞めるわけにはいかないから、結局頭を下げて戻ってきたらしいけどな。だから、あの明るさは、いろんなものを無理やり笑い飛ばしてる底抜けの明るさなんだよ、きっと」
サーッというボイラーの風の音が、急に寂しく響いた。
まだ15歳の高校生である進は、世の中の仕組みも、不条理を解決する手続きも詳しくは知らない。
ただ、理不尽な現実に直面したとき、人間がどれほど傷つき、逃げ出したくなるかという「痛み」だけは、誰よりも知っていた。
(あの人も、僕と同じように、夜中に一人で泣いたことがあったのだろうか)
図書館の整理室にいる限り、進が美智子の働く姿を目にすることはほとんどなかった。
ただ、彼女が女子寮の使いで本館へ書類を届けに来たり、外出したりする際、中庭の向こうを大きなカバンを抱えて小走りで横切る姿を、窓越しにたまに見かけるくらいだった。
その、誰も見ていないときの美智子の小さな背中が、今の進にはたまらなく愛おしく、そして危ういものに思えてならなかった。
「……伊崎」
鶴畑が、静かに言った。
「お前みたいに生真面目な奴が誰かを好きになるなんて、よっぽどのことだ。上林さんには、お前みたいな『ブレない男』が案外必要なのかもな」
「僕は、何もできない。ただの不器用な一年生だ」
「いいんだよ、お茶いれるときみたいに、じっくりやればさ」
鶴畑はそう言うと、眠そうに大きなあくびをして、背を向けた。
吹き出し口からの冷風が、進の額の汗をかすかに奪っていく。
進は目を閉じ、ズボンのポケットに大切に仕舞い直した美智子の学生証の感触を思い出した。
彼女がどんな過去を背負っていようと、何回寮を飛び出していようと、そんなことは関係なかった。
次に彼女がひっくり返りそうになったときは、自分がその細い腕を、誰よりも先に支えよう。
大阪の短い夏の夜が更けていく中、15歳の進は、己の心の中に一つの確固たる「誓い」を刻みつけていた。




