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第5章 落とし物と電話

【廊下の忘れ物と、秘密の約束】


 純喫茶での日曜日から、さらに数週間が経った。

 大阪の街は梅雨入りを控え、じっとりとした湿気が定時制高校の古い木造校舎を包み込んでいた。


 4時間目の授業終了を告げるチャインが鳴ると、昼間の労働で疲れ果てた生徒たちは、一斉に帰路へとつき始める。

 ある者は徒歩で、ある者は進のように駐輪場へ向かい、夜の静まり返った街へと散っていった。


 進がカバンを肩にかけ、誰もいなくなった2年生の教室前の廊下を通りかかった時のことだ。

 薄暗い白熱灯の光の中に、ぽつんと落ちている小さな物体が目に留まった。


 「……これは」


 腰を落として拾い上げると、それは手作りの小さなフェルトのキーホルダーだった。

 少し歪な形をした猫の形をしており、裏面には、あの見慣れた少し丸っこい文字で『かんばやし』とマジックで書かれていた。

 美智子がいつもカバンに付けていたものだ。


「上林先輩、また落とし物か……」


 進は小さく息を吐き、それを学生服のポケットに仕舞い込んだ。

 駐輪場へ急いだが、美智子の姿はすでにどこにもなかった。

明日、職場の図書館か学校で渡せばいい。

 進はそう思いながら、自転車のペダルを漕いで男子寮へと帰った。


 しかし、夜、寮の部屋に戻ってから、進は重大なことに気づいた。

「あ……明日は、日曜日だ」


 定時制の仕事も学校も、明日は休み。

 つまり、次に美智子に会えるのは丸二日後、月曜日の朝になってしまう。

 キーホルダーには、女子寮の部屋の鍵か何かが付いているわけではなかったが、美智子のことだ。

 お気に入りの小物を無くして、今頃大慌てで部屋の中をひっくり返しているかもしれない。


 進の胸の中に、ざわめきのような小さな感情が広がっていった。

 ただの先輩と後輩。

 それだけのはずなのに、最近、彼女を見ない日々が続くと、どこか物足りなさを感じている自分に気づいていた。


 「……電話、してみるか」


 呟いた自分の言葉に、進自身が一番驚いていた。


【十円玉の重み、最高に震える時間】


 翌朝、日曜日。

 進が暮らす男子寮の部屋は、畳敷きの質素な四人部屋だった。

 二段ベッドのような洒落たものはなく、夜は押し入れから布団を引っ張り出して並べて寝る、男くさい空間だ。

 男子寮は、同居人が同学年だ。

 休日は時々自由起床の日があった。

 今日はまさにその日で点呼がなく、部屋で高鼾たかいびきをかいている者も多かった。


 進はそっと部屋を抜け出し、一階のロビーへと向かった。

 そこには、緑色の公衆電話がぽつんと置かれている。


 進はポケットから、あらかじめ準備しておいた十円玉を数枚、手のひらに載せた。

 じっとりと汗ばんだ手のひらで、銅貨が妙に重く感じられる。

 手帳に書き写しておいた、定時制高校の「女子寮」の電話番号。

 もちろん、美智子の部屋に直接つながるわけではない。

 寮の受付を呼び出し、そこから彼女を取り次いでもらうのだ。


(もし、早川先輩が電話当番で出たらどうしよう。いや、寮の舎監さんだったら……)


 15歳の少年にとって、女子寮に電話をかけるという行為は、心臓が破裂しそうなほどの試練だった。


 意を決して、受話器を耳に当てる。

 ツーーー、という無機質な発信音のあと、震える指でボタンを押す。

 ピッピッ、と音がする。


 ガチャン。

 十円玉が吸い込まれ、呼び出し音が鳴り響いた。

 トゥルルルル……トゥルルルル……。


 心臓が早鐘を打ち、胃のあたりがキリキリと痛み出す。

 受話器を握る手に、じわりと脂汗がにじんだ。

 三回目の呼び出し音が鳴り終わった時、カチャリと音がして、少し年配の厳しそうな女性の声が聞こえた。


 『はい、高校女子寮受付です』


 「あ……あ、失礼します」

 進は精一杯、声を張り上げた。

 「あの、高校1年、の伊崎と申します。2年の、上林美智子先輩はいらっしゃいますでしょうか。学校の、落とし物の件で……」


事務的な用件であることを強調するため、わざと硬い口調でまくしたてた。

受付の舎監は一瞬、不審そうに間を置いたが、やがて『上林さんね。ちょっと待ってて』と無愛想に言った。


 そこからの数分間は、進の15年の人生の中で、もっとも長く、もっとも息苦しい時間だった。

受話器の向こうから、遠くでアナウンスが聞こえた。

 「2年生の上林美智子さん、電話が入っています。階の受話器をお取りください」


 『もしもーし! 上林ですっ!』


 受話器から飛び出してきたのは、間違いなく、あの明るく弾んだ美智子の声だった。

 少し息を切らしている。


「あ、上林さん。伊崎です」

『えっ!? 伊崎君!?』


 美智子の声が、驚きでワントーン高くなったのが分かった。

『どうしたの? 伊崎君から電話なんて、びっくりしちゃった!』


 「すみません、休日の朝早くに。あの……昨日、学校の廊下に、猫のフェルトのキーホルダーが落ちていて。上林先輩のですよね」


 『あーーーっ!! それ!!』

 受話器の向こうで、美智子が手を叩いたような音がした。

『そうなの! 部屋に戻ったらカバンからいなくなってて、私、部屋の畳を全部上げて探そうかと思ってたところ! ああ、よかったぁ……伊崎君、拾ってくれたんだ!』


 電話越しでも、彼女が安堵してへなへなと座り込んでいる姿が目に浮かぶようだった。

 進の緊張が、その突き抜けた明るさによって、ふっと解きほぐされていく。


 「明日、月曜日の朝礼の前に、整理室でお返しします」

『ううん、そんなの悪いよ。あ、そうだ! 今日さ、これからもし時間があるなら、この前の商店街の入り口まで私が取りに行っちゃダメかな? 伊崎君にすぐお礼言いたいし!』


「え……今日、ですか?」

『うん! ダメ……かな?』


 少しだけ不安そうに首を傾げるような美智子の声に、進は胸がドクンと跳ね上がるのを感じた。 「……いえ。大丈夫です。じゃあ、一時間後に、商店街の時計台の前で」


『やったぁ! 決まりね! じゃあ、一時間後!』


 ガチャリ、と電話が切れた。

 ツーーーという音だけが残る受話器を置き、進は深く息を吐き出した。

 ロビーの窓から差し込む五月の青い光が、いつもよりずっと鮮やかに見えた。

 進は、引き出された万年床でまだ眠っている同学年の皆をを起こさないよう、静かに、しかし弾むような足取りで自分の部屋へと戻っていった。

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