第3章 休日の商店街
【日曜日の商店街、迷子の一冊】
図書館での再会からしばらく経った、五月のよく晴れた日曜日。
定時制高校の寮で暮らす進にとって、唯一の休日であるこの日は、自らの内面を静かに見つめ直す大切な時間だった。
進は、寮から少し歩いたところにある、下町の古いアーケード商店街へと足を運んでいた。
目指すのは、商店街の熱気に埋もれるようにして佇む、一軒の古びた本屋だった。
間口の狭い店内に一歩足を踏み入れると、天井まで届きそうな本棚から、インクと紙の乾いた匂いが漂ってくる。
全日制の高校生たちが華やかな雑誌や漫画の棚に群がる中、15歳の進は、奥の文庫本や新書の棚へと直行し、背表紙の文字を一つひとつ眼光で射抜くように追っていた。
その時、数冊隣の棚の陰から、「うーん、ないなぁ……」という、ひどく困惑した声が聞こえてきた。
声の主は、本棚の最上段を背伸びして見上げたり、かと思えば床にしゃがみ込んで棚の奥を覗き込んだり、まるで落ち着きがない。
手にはクシャクシャに丸まった学校のプリントが握られている。
「……上林さん?」 進が声をかけると、その少女——美智子は、弾かれたように顔を上げた。
「あ! 伊崎君!」
美智子は大きな目をさらに丸くして、救世主にでも出会ったかのように表情を輝かせた。
「奇遇だね! 伊崎君も本を買いにきたの? 私さ、国語の課題で読書感想文を書かなきゃいけないんだけど、指定された本がどうしても見つからなくて……。もう三周くらい同じ棚をぐるぐる回ってるのよね」
彼女が差し出してきたプリントには、進の端正な文字とは対照的な、少し丸まった文字で『二十の瞳』と書かれていた。
「『二十の瞳』なら、名作の棚にあるはずですが」
進が数歩歩き、棚の中段から一冊の文庫本を抜き出そうとした。
しかし、その時、美智子のプリントの別の箇所が目に留まった。
「上林さん、これ……指定されているのは壺井栄の『二十の瞳』じゃなくて、大石兵六の『二十四の瞳』の間違いじゃないですか? それに、よく見たらこのプリント、去年の先輩たちの使い回しですよ」
「えっ!? 本当だ、二十四って書いてある! あはは、私、また数字を読み飛ばしちゃってた!」
美智子は恥ずかしそうに頭を掻いた。
彼女のこういう「うっかり」は、もういつものことなのだと進も察し始めていた。
しかし、残念ながら、その『二十四の瞳』の文庫本は、この小さな本屋の棚には見当たらなかった。
「困ったなぁ。今日中に買って、明日までに読まないと間に合わないのに……」
途方に暮れる美智子を見て、進は少し考え、冷静な口調で言った。
「それなら、わざわざここで買わなくても、僕たちの職場にありますよ」
「え? 図書館に?」
「はい。系列大学の図書館ですが、僕たち定時制の生徒も、手続きをすれば教養図書の貸出は認められています。月曜日の朝一に整理室の司書の方に言えば、すぐに書庫から出してくれますよ。僕が案内します」
美智子は一瞬、きょとんとした。
それから、ぱあっと顔を明るくした。
「そっか! 灯台下暗しだね! 買うと数百円しちゃうし、助かったぁ。伊崎君、本当に物知りだね!」
美智子は本を買うのをあっさりと止め、プリントを丁寧に(といっても、やはり少し斜めに)畳んでポケットに仕舞った。
進は目的だった少し難解な新書を無事に買い求め、二人は一緒に本屋を出た。
【琥珀色の純喫茶にて】
アーケードに出ると、美智子が楽しそうに進の顔を覗き込んだ。
「ねえ、伊崎君。本代が浮いちゃったからさ、そこにある喫茶店に入らない? 私、おごっちゃう!」
「えっ、いえ、そんな悪いですよ」
「いいのいいの! お昼の書類の件も、今の本の件も、伊崎君には助けられてばっかりだし。それにね、私、一人で喫茶店に入るの、ちょっと緊張するからさ」
美智子が指差したのは、商店街の片隅にある「純喫茶・琥珀」だった。
焦げ茶色の木製のドア、レトロなすりガラス。
15歳の進にとっては、大人の世界への入り口のようで、少し気後れする佇まいだった。
カランカラン、と静かなカウベルの音が響く。
店内は、ベロア調のえんじ色のソファが並び、ほの暗い照明の中に珈琲の深い香りとモダンジャズが流れていた。
昼間の喧騒が嘘のような、落ち着いた空間だった。
二人は奥のボックス席に腰を下ろした。
美智子はメニューを開くなり、「わあ、どれにしよう!」と目をきらきらせている。
結局、美智子はクリームソーダ、進はブレンド珈琲を注文した。
「伊崎君ってさ、いつもちゃんとしてるよね」
運ばれてきたクリームソーダのストローをいじりながら、美智子が言った。
アイスクリームがメロンソーダに溶けていくのを、彼女は少し落ち着かなさそうに見つめている。
「ちゃんとしてる、ですか」
「うん。仕事のときも、学校のときも、背筋がピッとしてて。私なんて、さっきみたいに数字は見間違うし、女子寮でも書類の束を落として寮母さんに毎日怒られてるの。自分でも気をつけてるつもりなのに、なんでかなぁ、頭の中で一瞬、何かが消えちゃうみたいになるんだよね」
美智子は困ったように笑った。
進は、温かい珈琲を口に含み、その琥珀色の液体を見つめた。
「……僕から見れば、上林さんは凄いです」
「え? 私が?」
「はい。僕は、自分のことで精一杯で、いつも周りに壁を作ってしまいます。でも、先輩は誰に対しても同じように明るくて、不器用だけど、絶対に逃げない。だから、たぶん、周りも、怒りながらも嫌っていないと思います」
進の言葉は、お世辞ではなかった。
彼がこれまで生きてきた世界には、悪意や冷徹な正論があふれていた。
だからこそ、美智子の持つ、裏表のない剥き出しの純粋さが、進には眩しく、そして尊く思えたのだ。
「……伊崎君って、やっぱりちょっと変わってるね。でも、嬉しいな」
美智子はそう言うと、今度は嬉しそうに、ストローで氷をカチカチと鳴らした。
珈琲の湯気の向こうで、美智子の屈託のない笑顔が揺れている。
母を亡くし、孤独という氷の檻の中にいた15歳の進にとって、この薄暗い純喫茶の席は、生まれて初めて見つけた「居場所」のような温かさに満ちていた。
二人の距離は、商店街を流れる穏やかな時間の中で、静かに、けれど確かに縮まっていった。




