第2章 地下の弁当箱と、思わぬ代役
【思わぬ代役】
美智子が嵐のように去っていったあの日から、一週間が経とうとしていた。
図書館整理室での仕事は、単調ながらも張り詰めた空気が漂っていた。
進は少しずつラベル貼りのコツを掴みかけていたが、指導係の早川の目は相変わらず厳しかった。
「伊崎君、手が止まってる。次はそっちの書架の新着図書を運んできて」
やや東北訛りの、鋭く整った言葉。
進は「はい」と短く答え、言われた通りに動いた。
この職場の救いは、周囲の大人たち、つまり大学に雇用されている図書館司書たちが、総じて上品で穏やかだったことだ。
定時制の生徒だからと見下すような者は一人もおらず、進に対しても「伊崎君」と、一人の大人として丁寧に呼んでくれた。
彼らの静かで知性ある佇まいは、荒んだ環境しか知らなかった進にとって、一種の憧れでもあった。
昼休みになると、進たちは整理室を出て、地下にある専用の休憩室へと向かう。
そこは、定時制高校の生徒たちが食事を摂るための部屋だった。
部屋の片隅には、ステンレス製の大きな「弁当保温ボックス」が鎮座している。
中には、給料から天引きされている仕出し弁当が人数分納められており、昼時になると、いつでもホカホカの状態で食べることができた。
「いただきます」
手を合わせ、プラスチックの重箱の蓋を開ける。
弁当の中身は、お世辞にも豪華とは言えなかった。
焼き魚に、ひじきの煮物、ほんの申し訳程度の卵焼 き。
しかし、温かいご飯と、自由に飲める熱いほうじ茶があれば、十五歳の少年にとっては十分に「まあまあ」の贅沢な食事だった。
「早川さん、さっきのラベルの件ですが……」
進が箸を動かしながら尋ねると、早川は自分の弁当の梅干しを見つめながら、ぽつりと言った。
「悪くはなかったわよ。ただ、角が少し浮いてた。あそこから剥がれるの。司書の方たちは言わないけれど、私たちはプロの補助員としてここにいるんだから」
キツい言葉の裏にある、彼女なりの誇り。
早川もまた、何らかの重い現実を背負って生きる、孤独な戦友の一人だった。
そんな昼休みが終わろうとしていた時、整理室の司書から進に声がかかった。
「伊崎君、ちょっといいかしら」
話を聞けば、本来なら二つ上の上級生が、午後から「大学女子寮」へ重要な引き継ぎ書類を届ける手筈になっていたのだという。
しかし、その先輩が急な腹痛を起こし、医務室へ担ぎ込まれてしまった。
「今、手が空いているのが伊崎君しかいなくてね。場所は分かるかしら? 自転車で10分ほどのところにあるのだけど」
「はい、行けます。僕に行かせてください」
進は二つ返事で引き受けた。不器用な自分を雇ってくれている図書館への、せめてもの恩返しのつもりだった。
【女子寮の迷宮と、再会のパニック】
書類をカバンに入れ、進は再び実用自転車のペダルを踏んだ。
大阪の昼下がりの街は、埃っぽくも活気に満ちている。
キャンパスの裏手を少し進むと、高い塀に囲まれた、レンガ造りの立派な建物が現れた。そこが、系列大学の女子寮だった。
重い鉄扉を開け、玄関ロビーに入る。
図書館の静寂とは違い、どこか華やかで、それでいてひっそりとした独特の空気が流れていた。
「失礼します。図書館の事務補助の者ですが、書類をお持ちしました」
進が受付のカウンターに向かって声をかけると、奥の事務室から、トントントントン、と聞き覚えのある、あの慌ただしい足音が響いてきた。
「はーい! 今行きますっ!」
ガラッと引き戸が開き、飛び出してきたのは、やはり上林美智子だった。
今日も彼女は、紺色のベストにひだの多いスカートという事務服姿だったが、その手にはなぜか、大きなハサミと、ぐちゃぐちゃに絡まった麻紐の束が握られていた。
「あ! あなたは……えっと、図書館の…」
「伊崎です」
進は真面目な顔で訂正した。
「そうそう、伊崎君! ごめんなさい、ちょっと今、寮母さんに頼まれた荷物の梱包をしてたんだけど、紐がどうにもこうにも絡まっちゃって……あ、書類? ありがとう!」
美智子はハサミを持ったまま、進から書類を受け取ろうとした。
しかし、その拍子に、彼女の肘がカウンターの上に置いてあったクリップ入れに当たった。
ガシャーン、と、今度は何十個もの大容量クリップが、ロビーのタイル床一面に散らばった。
「わちゃあ! やっちゃった!」
美智子は頭を抱え、その場でしゃがみ込む。
進は深く溜息をつきたいのを堪え、カバンを置いて床に膝をついた。
「……僕も拾います」
「うう、ごめんね伊崎君。私、いっつもこうなの。一つのことに気を取られると、周りのもの全部ひっくり返しちゃうのよね」
美智子は申し訳なさそうに眉を八の字にしながらも、手だけはせわしなく動かしてクリップを集めていた。
だが、集める端から、彼女の袖口が別のクリップを弾いて飛ばしていく。
その様子を見て、進は確信した。
この先輩は、わざとふざけているのではない。
本当に、体の動きと注意力が、本人の意志とは無関係に散らかってしまう質なのだ、と。
「上林さん」
進は冷静な声で言った。
「そっちの麻紐を解いていてください。クリップは、僕が全部拾いますから」
「え? あ、うん……。ごめんね、頼んじゃって」
美智子は素直に床へ座り込み、麻紐と格闘し始めた。
進は、黙々とクリップを拾い集め、元のケースに戻していく。その正確で無駄のない動きを、美智子は感心したように見つめていた。
「伊崎君って、凄いのね。早川さんが言ってた通りだわ」
「早川先輩が、僕のことを?」
「うん。『今年入った一年生は、理屈っぽくて愛想がないけど、仕事は絶対に手を抜かない』って。本当にその通りね。私なんて、何年やってもこうだもん」
美智子は自嘲気味に笑ったが、その笑顔には、やはりどこかカラッとした、人を引きつける明るさがあった。
進の胸の奥で、カチリ、と小さな音がした。
自分を縛り付ける「生真面目さ」や「劣等感」が、この不器用な少女の前では、なぜか少しだけ軽くなるような気がした。
「書類の受領印、ここにいただけますか」
進が手渡した書類に、美智子は「あ、そうだった!」と、また大慌てでハンコを捺した。ただ、その位置は少し斜めに傾いていた。
「ありがとう、伊崎君! 助かったわ。またね!」
「失礼します」
女子寮を後にする進の耳に、最後まで美智子が麻紐を落としたような小さな音が聞こえていた。
【夜の教室、二つの影】
その日の夜。
大阪市内の定時制高校の校舎は、昼間の全日制の生徒たちが去り、独特の哀愁を帯びた静けさに包まれていた。
学力レベルはお世辞にも高いとは言えず、教室内では私語も多かったが、世間で噂されるような荒れた雰囲気はなかった。
みな、昼間の労働で疲れ果て、睡魔と戦いながら授業を受けているだけだった。
1時間目の授業が終わり、休み時間になった。
進が廊下の自販機で、甘い缶コーヒーを買おうと小銭を投入した時、後ろから不意に肩を叩かれた。
「伊崎君、お疲れ様!」
振り返ると、そこには昼間の事務服から、制服に着替えた美智子が立っていた。
カバンを肩にかけ、なぜかノートを何冊も抱えている。
「あ、上林さん」
「お昼はありがとね。これ、お礼!」
そう言って美智子が進の手のひらに握らせたのは、どこかのパン屋で買ってきたらしい、小さなジャムパンだった。
「お礼なんて、仕事ですから当然です」
「いいのいいの、私が嬉しかったから。あ、そうだ。伊崎君って、国語得意?」
美智子は突然、抱えていたノートの一冊を開いて進に見せた。そこには、赤ペンでバツだらけになった漢字の小テストの用紙が挟まっていた。
「私さ、漢字の偏と冠が、どうしても頭の中でごっちゃになっちゃうのよね。ノートに書くときも、一行飛ばしちゃったりして」
進は、そのノートをじっと見つめた。
文字は決して汚くない。むしろ、一生懸命に力を込めて書かれている。だが、文字のバランスが妙に崩れていたり、マス目からはみ出していたりした。
「…ここは、こうやって覚えると間違えませんよ」
進は自販機の横のベンチにノートを広げ、自分のシャーペンを取り出して、静かに解説を始めた。
彼の説明は、15歳とは思えないほど論理的で、分かりやすかった。
「へえー! なるほど! 伊崎君、頭いいのね!」
美智子は、まるで大発見をした子供のように目を輝かせ、進の顔を覗き込んだ。
その距離の近さに、進は少しだけドギマギしながら、缶コーヒーの冷たさで指先を冷ました。
工場の油の匂い、古い図書館の漆喰の匂い、そして美智子の持つ、どこか落ち着きのない、けれど温かい空気。
定時制の長い夜の帳が下りる中、二人の不器用な物語は、確かにここから、静かに色づき始めていた。




