第1章 セピア色の大学図書館整理室
【朝の匂いと自転車のペダル】
昭和58年5月。
世間は、東京ディズニーランドの開園や任天堂の「ファミリーコンピュータ」の発売に沸き、華やかな消費社会へと突き進んでいた。
しかし、大阪市内の下町にある定時制高校の寮に身を置く15歳の伊崎進にとって、そんな喧騒はまるで遠い異国の出来事だった。
進の朝は早い。
朝7時30分、彼は寮の駐輪場から、古びた実用自転車を漕ぎ出す。
行き先は、系列の大学図書館だ。
まだ円高不況が日本を襲う前、高度経済成長の残り香がそこここに漂う大阪の街を、進は黙々とペダルを踏んで進む。
排気ガスと、どこかの町工場から漂う切削油の匂い。自転車で15分ほどの距離にある大学キャンパスは、彼にとって「職場」であり、生活のすべてだった。
定時制高校の紹介で得た、図書館の事務補助員という仕事。
勤務時間は朝8時から夕方15時30分まで。
タイムカードなどという近代的な機械はない。
出勤すると、職員室の大きな黒板の横にある木製の札を「一歩」から「出勤」へとひっくり返す。
それが、彼らの出退勤の証明だった。
8時ちょうど。
進はバケツに水を汲み、モップを握る。
最初の45分間は、担当エリアの掃除と決まっていた。広大な閲覧室の床を磨き、窓枠の埃を拭き取る。
体を動かしている間だけは、自分の境遇を忘れられた。
8時45分からの15分間の休憩を挟み、午前9時。
静まり返った図書館全体で朝礼がある。
そのあと、奥にある部屋「整理室」で作業が始まる。
そこは、一般の学生が立ち入ることのできない、本が「本」として登録されるための舞台裏だった。
部屋は思いのほか広く、窓からは柔らかな光が差し込んで、常に清潔に保たれている。
部屋の中央や壁際には大きな木製の机が並び、そこで十数人の男女の図書館司書たちが、静かに目録カードを繰ったり、洋書のタイトルを検分したりしていた。
当時はまだ、パソコンなどという便利なものは一台もない。
すべては手書きのカードと、タイプライター、そして人の手によって管理されていた。
進たち定時制の生徒に与えられた任務は、新着図書の背表紙に分類ラベルを貼り、透明なフィルムで保護する作業だった。
「伊崎、また糊がはみ出してる。手元が雑なんだよ」
部屋の隅、ラベル貼り専用の机から、小さいが硬く鋭い声が飛んだ。
声の主は、進の指導係であり、定時制高校の一年先輩である早川真知子だった。
早川は東北の雪国から家庭の事情で大阪へ出てきた、芯の強そうな16歳の少女だった。
関西弁の飛び交うこの街で、彼女は標準語を話し、その口調はいつも容赦なくキツかった。
「すみません、早川さん」
「謝る暇があったら手を動かす。司書の方たちが見てるんだから、恥ずかしい仕事はしないで」
厳格な司書たちは、進が少々不器用であっても、頭ごなしに怒ることはほとんどない品の良い方々だ。
だからこそ、早川の叱責が、15歳の進の胸に小さく突き刺さる。
決して仕事ができないからといって追い出されるような職場ではなかったが、生真面目な進は、自分の手際の悪さにいつも微かな劣等感を抱いていた。
【9時のお茶と、嵐のような足音】
9時、10時30分、14時30分。
この職場には、一日に三度の「お茶休憩」という厳格な「掟」があった。
当番に当たった者は、整理室の隣にある薄暗い給湯室で、人数分の湯呑みに熱い緑茶をいれ、お盆で運ばなければならない。
この日の午前9時の当番は、まだ入って間もない進だった。
大きなステンレスの薬缶から急須へ湯を注ぐ。
茶葉の量、湯の温度。少しでも手際が遅れると、また早川から「お茶が冷めてる」と小言を言われる。
進は焦りから、指先をわずかに震わせながら湯呑みを並べていた。
その時だった。
給湯室の外、静寂を美徳とする図書館の廊下から、トントントントン、と、妙に慌ただしく、規則性のない足音が近づいてきた。
それは明らかに、他の司書たちの静かな歩調とは異なっていた。
「あ、失礼しますっ!」
給湯室のドアが勢いよく開き、一人の少女が飛び込んできた。
彼女は、系列大学の女子寮で事務補助をしているという、仕事用の地味な事務服を身にまとっていた。
紺色のベストに、ひだの多いスカート。
しかし、その着こなしはどこか落ち着きがなく、胸元には数枚の書類が、いまにも零れ落ちそうなほど乱雑に抱えられていた。
彼女の名は、上林美智子。
16歳。
進と同じ定時制高校に通う、一つ先輩の少女だった。
「早川さん、いる!?あ、これ、女子寮の検収印が漏れてたっていう書類で……あ、あとこれ、来月の備品請求の……わ、わっ!」
美智子は、給湯室にいたのが見知らぬ後輩(進)であることに気づき、一瞬だけ大きな目を丸くした。
その拍子に、抱えていた書類の一枚が、ひらりと進の足元へ滑り落ちる。
「あ、ごめんなさい!」
美智子は慌てて腰を落としたが、その拍子に、今度はポケットに差していたボールペンが床に転がった。
カラン、と高い音が給湯室に響く。
進は黙って腰を落とし、彼女の足元に落ちた書類とボールペンを拾い上げた。
手渡す際、進は美智子の顔を正面から見た。
彼女の髪は、少し癖のあるショートカットで、一生懸命に走ってきたのか、額には微かに汗がにじんでいる。
何より印象的だったのは、その瞳だった。
何かに追われるように激しく動きながらも、どこか憎めない、純粋な光を宿している。
「あ、ありがとう……。あなた、今年入った伊崎君、だよね?」
美智子は、書類を受け取りながら、人懐っこい笑みを浮かべた。
その笑顔は、このセピア色の古い図書館の中で、そこだけパッと火が灯ったように明るかった。
「はい。伊崎進です」
「私、上林美智子。大学の女子寮の勤務なの。よろしくね!」
美智子は、自分が書類を落としたことなど、次の瞬間にはもう忘れてしまったかのように、再び慌ただしく整理室の方へと向かおうとした。
「ちょっと、美智子。廊下は静かに歩くって、あれほど言ったでしょ」
給湯室の入り口に、いつの間にか早川が立っていた。腕を組み、呆れたような、しかしどこか見慣れたものを迎えるような目をしている。
同学年である二人は、同じ定時制の仲間として、以前からの知り合いのようだった。
「あ、早川さん! 聞いてよ、女子寮の寮母さんがね、この書類今日中に届けろって急に言うからさ、私、自転車思いっきり漕いできちゃって……」
美智子は身振り手振りを交えながら、早口でまくしたてる。
その様子は、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのように脈絡がなく、しかし不思議なエネルギーに満ちていた。
進は、薬缶の湯気を浴びながら、その光景をじっと見つめていた。
定時制高校の生徒たちには、家庭の事情、経済的な理由、あるいは学力的な問題など、それぞれに割り切れない背景を持つ者が多かった。
進自身も、母を亡くし、不条理な現実に押し潰されそうになりながら、この場所に流れ着いた身だ。
しかし、今、目の前で楽しそうに、そして不器用に動き回る上林美智子という少女からは、悲壮感のようなものは微塵も感じられなかった。
「ほら、書類は私が預かるから。伊崎、お茶が冷める。早く運んで」
早川の声で、進は我に返った。
「あ、はい」
美智子は片手を小さく振ると、再びトントントントン、と慌ただしい足音を響かせながら、去っていった。
彼女が去った後の給湯室には、ほんの少しだけ、甘い石鹸のような匂いと、嵐が過ぎ去った後のような妙な高揚感が残されていた。
15歳の進の胸の中で、これまで経験したことのない、小さな、本当に小さな歯車が、静かに回り始めた瞬間だった。




