第1章 美智子、相続問題に巻き込まれる
【相次ぐ訃報と、突然の遺産】
高橋との因縁を完全に断ち切り、公務員試験の専任講師として充実した日々を送っていた進と美智子に、恐れていた身内の不幸が相次いで襲いかかった。
まず、岡山にいた美智子の父親が、静かにその天寿を全うした。
一度に一つのことしかできない美智子は、父親の死という巨大な悲しみに直面し、京都のアパートで幾度も涙を流した。
進は講義の段取りをなんとかやりくりし、妻の小さな身体をしっかりと支えながら、葬儀を無事に執り行った。
しかし、本当の試練は、父親の四十九日も明けないうちに、間髪入れずにやってきた。
今度は、美智子の叔父――父親の弟にあたる人物が、急逝したのだ。
その叔父は、生涯を独身で通し、子どももいなかった。
若い頃から堅実に働き、いくつかの不動産やまとまった額の軍資金(財産)を残しての他界だった。
「進君……岡山の親戚から、お電話があってね。おじさんが亡くなったって……」
受話器を持った美智子の声は、度重なる不幸で完全に元気を失っていた。
だが、この時点では、二人はまだ事態の本当の深刻さに気づいていなかった。
その訃報が二人のもとに届いたのは、なんと叔父が亡くなってから「半年以上」が経過した、あまりにも遅すぎるタイミングだったからだ。
【半年後の罠、泥沼の親族】
叔父には配偶者も子どももおらず、その親(美智子の祖父母)もとうに他界している。
となれば、法律上の相続人は叔父の兄弟姉妹、そしてすでに亡くなっている兄弟の子である「代襲相続人」たち、つまり美智子やその従兄弟たちだった。
問題は、その連絡が半年後だったことだ、
進は、その話を聞いた瞬間に顔色を変えた。
(亡くなってから半年……。不味いな。相続の承認または放棄は、『自己のために相続の開始があったことを知った時から3ヶ月以内』にしなければならない)
しかし、他の親族がすでに遺産の手続きに手を付け、美智子もその事実の断片を知ってしまっていた。
法的には、もう『相続放棄』を選択してこの件から綺麗に身を引く段取りは使えない可能性が極めて高い。
案の定、残された莫大な財産を巡り、これまで疎遠だった各地の親族たちが一斉に牙を剥き始めた。
「あの不動産は俺がもらう」
「生前にこれだけ尽くしたのだから取り分が多いはずだ」
醜い主張が飛び交い、長年平穏だった親族関係は、一瞬にして骨肉の争いへと変貌を遂げた。
独身の叔父が遺言書を残していなかったことが、その泥沼の段取りに拍車をかけていた。
【鳴り響くベル、疲弊する美智子】
親族の一人がついに弁護士を立てたことで、事態は法的な紛争へと発展した。
それ以来、静かだった京都のアパートの固定電話や、美智子の携帯電話には、毎日のように見知らぬ法律事務所からの連絡が頻繁に入るようになった。
送られてくる書面には、「遺産分割協議書」「法的措置」「法定相続分」といった、硬苦しく、威圧的な文言が書き連ねられている。
「伊崎美智子様。今回の遺産分割について、当職のクライアントである〇〇氏は――」
一度に一つのことしかできない美智子にとって、この執拗な弁護士からの連絡と、親族たちの金への執着は、完全にキャパシティを超えていた。
かつて高橋の嫌がらせに怒っていた時の元気はどこへやら、彼女は鳴り響く電話のベルに怯え、机に送られてきた書類を見るだけで、頭を抱えて座り込んでしまうようになった。
「進君……私、もうおじさんのお金なんて一円もいらない。お父さんが死んじゃって悲しいだけなのに、なんでみんな、お写真の中のおじさんをほったらかして、お金のお話ばっかりするの……? 私、もう電話に出るのが怖くてたまらないよ……」
やつれた顔で涙を流す美智子。
その小さな肩は、精神的な疲弊から痛々しいほどに震えていた。
仕事から帰ってきた進は、そんな妻の姿を見て、胸が締め付けられるような激しい怒りと、強い使命感を覚えた。
(今度は、僕が、この泥沼から美智子さんを救い出す番だ)
進は美智子の震える手をきゅっと握りしめ、その目を見つめて静かに、しかし断固たる声で告げた。
「もう大丈夫だよ。これからは、その弁護士からの連絡もお手紙も、ぜんぶ僕が代わりに引き受ける。君はもう、一言もお話をしなくていい」
相次ぐ身内の死と、突然降って湧いた遺産泥沼。
公務員試験の教壇に立ちながら、進は妻の笑顔を取り戻すため、実務家としての持てる知識のすべてを総動員し、親族という名の新たな怪異たちとの孤独な法的戦闘を開始するのだった。




