表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
50/65

第9章 高橋の再来と拒絶

【三年の歳月と、新たな戦場】


 それから、三年の歳月が流れた。


 京都市右京区のアパートに響き渡っていたかつての暗い不穏なベルの音は、完全に過去のものとなっていた。

 伊崎進の講師としてのキャリアは、さらなる進化を遂げていた。

 これまでの宅建試験を中心としたタイトなスケジュールから、より長期的な段取りが求められる「公務員試験対策」の専任講師へと、その主戦場を大きくシフトさせていたのだ。


 秋の直前期にすべてのエネルギーが爆発する宅建試験とは異なり、公務員試験は憲法、民法、行政法といった膨大な法律科目を、年間を通じてじっくりと講義していく必要がある。

 結果として、進の仕事は一年を通じて平均的に、かつ安定して詰まるようになっていた。


 京都、梅田、難波、神戸の各校舎を飛び回る忙しさは相変わらずだったが、直前期のあの狂気じみた1日12時間労働に比べれば、心身ともにいくばくかの計画性とゆとりを持って日々の教壇に臨むことができるようになっていた。


 時代もまた、急速に移り変わっていた。世間では「LINE」という新しいコミュニケーションアプリのサービスが開始され、瞬く間に人々の生活に浸透していった。

 受講生たちとの連絡や予備校の事務連絡の段取り上、進も時代の波に合わせてスマートフォンにそのアプリを導入し、使い始めたばかりだった。


 そんな、ある穏やかな日の夜のことである。


 講義を終えて鳴滝のアパートに戻り、美智子が淹れてくれたお茶を飲みながら、進が何気なくスマートフォンの画面を開いた。新しいメッセージを確認しようとした進の指先が、ある一画面を表示した瞬間、ピキリと凍りついた。


 画面の「友だち追加」のページに、見覚えのある、しかし二度と視界に入ることなどないと考えていた、あの名前が静かに浮かび上がっていたのだ。


 ――高橋。


 その二文字を見た瞬間、進の脳裏に、あの深夜の不毛な会話、陰謀論、そして予備校校舎への電凸という、おぞましい「嫌な記憶」が鮮烈に、濁流のように蘇ってきた。

 奥底に沈めていた過去の泥が、一瞬にして心の水面を黒く濁らせていく。


 (……高橋。お前は、まだ僕の人生の段取りを邪魔しようというのか……)


【変わらぬ狂気と、冷徹な鉄槌】


 進のただならぬ気配を察した美智子が、お盆を持ったまま「進君……? お顔が真っ青だよ、どうしたの?」と、顔を覗き込んできた。


 進は無言でスマートフォンの画面を美智子に見せた。


 美智子は画面の名前を凝視すると、すぐに「あっ……!」と声を上げ、まるで行く手を阻む害虫でも見つけたかのように、その大きな目を怒りで三角に釣り上げた。


 「なんなのこれ……! なんでこの高橋って人、また進君の前に出てくるのよ! 3年も経って、まだ進君に意地悪しにくるの!?」


 「あぁ……信じられないな。あの時、あれほど明確に通告したはずなのに。LINEの自動同期か何かで、僕の番号を見つけたんだろう。本当に、どこまでいってもこちらの事情を無視する男だ」


 進の心の中に、もはや迷いはなかった。

 3年前の自分とは違う。

 今の進には、守るべき確固たる日常があり、愛する美智子との平穏がある。


 進はすぐにパソコンを立ち上げ、キーボードを叩いた。

 高橋のアドレスに向けて、二度と弁解の余地を与えない、氷のような一撃のメールを打ち込んでいく。


 高橋様


 LINEの画面を拝見しました。


 ブロックさせて頂きました。


 「以後、一切、私の職場・自宅・友人知人宅への連絡を通じ、私(伊崎進)と連絡を試みないでください。」と以前、申し上げました。


 「以上の通告は無期限のものであり、いかに時間が経過しようと、決して解かれることのない内容とご認識頂けたらと思います。」という文言もお読みになられたはずです。


 「以下の行為を厳にお断り致します。」として、「⑧その他、何らかの方法で連絡を試みる行為一切」と記させて頂いたはずです。LINEは⑧に該当することが明白です。厳に慎んで頂けますでしょうか。


 私の気持ちは、未来永劫不変です。


 今回は法的措置は控えますが、以降は検討させて頂きます。


 伊崎 進


 送信ボタンを静かにクリックする。

 それと同時に、スマートフォン側のLINEでも、高橋のアカウントを一切の躊躇なく「ブロック」の段取りへと叩き込んだ。


【相手の気持ちが分からない人】


 「よし……これで本当に、完全に拒絶した」


 進が画面を閉じ、深く息を吐き出すと、美智子がすぐさま進の隣にぴったりと寄り添うように座り込んだ。

 美智子は進の腕をぎゅっと抱きしめるようにしながら、呆れ果てたという風に、いつもの調子でキッパリと言い放った。


 「本当に、その高橋さんって人は、相手の気持ちがこれっぽっちも分からない人なんだねぇ……!」


 「そうだね。あれだけの警告文書を送られておいて、3年経ったからと平然と友人申請をしてくる。彼の脳内には、他人の拒絶という段取りを理解する回路が、最初からないのかもしれない」


 「そうだよ! 普通の人ならね、あんなにハッキリ『嫌だ』って言われたら、恥ずかしくって、申し訳なくって、二度とお顔なんて見せられないもん!」


 美智子は進の手の甲を優しくさすった。


 「あの人はね、いっつも自分のことばっかり。自分が寂しいから、自分が誰かに構ってほしいからって、進君がどんなに嫌な気持ちになるか、全然考えてない。3年経っても、なーんにも反省してないんだよ!」


 一度に一つのことしかできない美智子の真っ直ぐな視線は、高橋の持つ歪んだ「自己中心性の本質」を完璧に見抜いていた。

 彼女の批判を聴いているうちに、進の胸に蘇っていた嫌な記憶の泥は消え去っていった。


 「その通りだ。あんな男のために、僕たちの平穏な時間を無駄にする必要はないな」


 「うん! 進君のそのメールで、もうおしまい! これからはね、せっかく始まったそのLINEで、私と楽しいお話をいっぱいしよう? 私、進君にお写真とか、いっぱい送っちゃうんだから!」


 「あぁ、楽しみにしているよ」


 進は美智子の不器用な手を握り返し、穏やかに微笑んだ。


 窓の外の京都の夜は、どこまでも静かで、心地よい静寂に満ちていた。

 過去の亡霊がどれほど扉を叩こうとも、伊崎進の人生の段取りは、もう二度と狂わされることはない。

 最愛の妻に寄り添われながら、進は明日、教壇で未来を夢見る公務員志望の受講生たちに語るべき、論理的で美しい法律の講義案へと、再び真っ直ぐに向き直るのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ