第8章 高橋の過去
【色褪せた履歴書、新聞奨学生の記憶】
高橋を完全にブロックし、部屋に本当の静寂が戻ってからというもの、進の脳裏には、かつて深夜の長距離電話で何度も聞かされた高橋の「浪人時代の身の上話」が、奇妙な残像のように浮かんでいた。
高橋は、宮城県でも有数の名門進学校の出身だった。
高校時代、現役で地元の最高峰である東北大学を受験したものの、結果は不合格。
プライドをへし折られた彼は、東京の予備校へ通うことを決意する。
その際、自らに退路を断ち、死に物狂いの気合いを入れるためと称して、実家からの仕送りを断り「新聞奨学生」になったのだという。
しかし、それは若き日の無謀なエゴが生んだ、あまりにも過酷な地獄の始まりだった。
朝刊の配達のために午前3時に叩き起こされ、暗闇の街を自転車で駆け巡る。
配り終えてから予備校の教室で泥のように眠り、夕方になれば再び夕刊の配達へと駆り出される。
机に向かう時間など、まともにとれるはずがなかった。
慢性的な睡眠不足と疲労でボロボロになった高橋は、毎日、オロナミンCとリポビタンDを何本も強引に胃袋へ流し込み、無理やり中枢神経を昂ぶらせて机にしがみついていた。
そんな歪んだ段取りが、実を結ぶはずもない。
結局、東京での二日間の過酷な日々を経ても東北大学には手が届かず、高橋は体調を崩して挫折し、逃げるように宮城の実家へと戻った。そして自宅浪人として三浪目に入ったのだ。
だが、三浪目の春も東北大学の門は開かなかった。
結局、彼は滑り止めとして受験していた、京都の私立・黎明大学へと進学した。
それが、進と高橋が出会うことになる、すべての始まりの伏線だった。
(……待てよ。高橋はいつも『俺は3浪だ』と言っていたが、あいつは確か、早生まれだったはずだ)
ふと、進の脳裏に計算式が浮かぶ。
早生まれの年齢制限と受験年度を厳密に逆算していくと、高橋は世間に体裁を取り繕うために「3浪」と言い張っていただけで、実質は「4浪」の年齢で大学に入ってきたのではないか。
しかし、進はすぐに小さく首を振った。
「……いや、3浪だろうが4浪だろうが、今の僕には、もう本当にどうでもいいことだな」
受話器の向こうの狂気に怯える必要のなくなった今、その事実は進の心を一ミリも動かさなかった。
【新聞屋の現実と、美智子の手厳しい全肯定】
「ええっ!? その高橋さん、新聞奨学生なんかやってたの!?」
進からその話を聴いた美智子が、台所でお鍋を洗いながら、いつになく大きな声を裏返して驚いた。
実は美智子も、かつて若い頃に一時期、生活のために新聞販売店で働いていた経験があったのだ。
だからこそ、その世界の本当の厳しさを誰よりもよく知っていた。
美智子は濡れた手をタオルでゴシゴシと拭くと、進の前にやってきて、呆れたように小さく息を吐いた。
「バカだなぁ……それは本当に、愚かな選択だよ、進君」
「愚か、かい?」
「そうだよ! 新聞屋さんの朝はね、進君が思ってるよりずうっと早くて、ずうっと体中が痛くなるの! 毎日天気が良いわけじゃないし、雨の日も雪の日も、重い新聞をいっぱい積んで走らなきゃいけないんだから。そんなことしながら、頭を使う勉強なんて、絶対にできるわけがないもん。気合いを入れるためだなんて、ただのカッコつけだよ」
美智子の手厳しい、しかし極めて現実的な指摘に、進は苦笑するしかなかった。
「確かにね。彼はいつも『あの過酷な経験が俺を強くした』と誇らしげに語っていたけれど、結果としては一番行きたかった大学に落ち続けてしまったわけだからね……。手段と目的が、完全にすり替わっていたのかもしれない」
「そうだよ! オロナミンCとかリポビタンDなんて、その時だけ元気になった気がするだけで、体の中はボロボロのまんまだもん。そんなの間違ってるよ」
美智子はそう言い放ち、進の顔をじっと見つめた。
【二つの覚醒剤、決定的な違い】
「……でもね」
進は、少しだけバツの悪そうな顔をして、かつての自分の過去を振り返った。
「それを言うなら、僕だって司法試験の受験生時代、鳴滝の狭い部屋で、睡魔を払うためだけに、カフェインを毎日のように飲みながら、夜通し基本書を読んでいたんだ。高橋の栄養ドリンクを、僕は笑えないよ」
あの極貧の、明日をも知れぬ浪人生活。進もまた、自らの肉体を削り、脳を無理やり覚醒させることでしか、司法試験という巨大な怪物に立ち向かう段取りが組めなかったのだ。
しかし、美智子はそんな進の言葉に、大きく首を横に振った。
彼女は進の両肩を向こうからポンと叩くと、最高の春の日差しのような笑顔で、力強く言った。
「ううん、ぜんぜん違うよ! 進君と高橋さんはね、決定的に、ぜんぶが違う!」
「何が違うんだい?」
「進君はね、本当にお金がなくて、お母さんもいなくて、生きるために、生活のために、それしか仕方がなかったんでしょ? カフェインを齧らなきゃ、明日が来なかったからでしょ? 」
美智子は一歩踏み込み、キッパリと言い切った。
「でもね、その高橋さんのは違う。実家にお金があるのに、自分で勝手に『気合いを入れるため』なんて言って、お勉強ができない環境に飛び込んで、ドリンク飲んで満足してただけだもん。それは『がんばる』じゃなくて、ただの自業自得よ。自分でわざと泥沼に入って、後から『俺はこんなに苦労したんだぞ』って。進君と一緒にしちゃ、絶対にダメ!」
美智子の、混じり気のない全肯定。
進は、その言葉を胸の奥にじわじわと染み込ませながら、ふっと心の憑き物が完全に落ちていくのを感じた。
そうだ。自分は、生きるために泥を啜った。
だからこそ、今、予備校の教壇で、同じように人生の崖っぷちに立って必死に這い上がろうとしている受講生たちの痛みが、我がことのように分かるのだ。
高橋のように、過去の苦労を他人を殴るための武器にしたりはしない。
「ありがとう、美智子さん。……本当に、僕と彼は、最初から違う世界を歩いていたんだね」
「そうだよ! だからもう、あの人のことは、3浪でも4浪でも、ぜんぶゴミ箱にポイ!」
美智子がハキハキと笑う。進はその笑顔に救われながら、静かにノートを開いた。
過去の残像は完全に消え去った。明日は梅田校での12時間労働が待っている。
進は、自分を信じて待つ受講生たちに「正しいがんばりの段取り」を伝えるため、今度こそ完全に前を向いて、力強くペンを走らせるのだった。




