第7章 進が鬼になる時
【氷の宣戦布告】
京都駅前の予備校講師室。
受話器の向こうから聞こえる高橋の声は、周囲の講師や受講生に漏れ聞こえんばかりの勢いだった。
『おい伊崎! なんで電話に出ないんだ! 俺のメールを無視して、12時間働いてるから何だっていうんだ! 俺の妻が癌なんだぞ! 昔の恩を忘れて、そこまで冷酷になれるのか!』
講師室の空気が一瞬で凍りつく。しかし、進は顔色一つ変えなかった。
ここで声を荒らげれば、高橋と同じ泥沼に落ちる。
何より、人生を懸けて通ってくる受講生たちの聖域を汚すわけにはいかない。
進は驚くほど静かに、地を這うような冷徹な声で告げた。
「高橋。ここは僕の職場だ。受講生の人生がかかっている場所だ。これ以上の業務妨害は容赦しない。…君への返答は、今からメールで送る。それが僕の最後の言葉だ」
それだけ言うと、進は高橋がさらに吠える前に、静かに、しかし断固とした力で受話器をフックに戻した。
ガチャン、という硬い音が講師室に響く。
事務スタッフが心配そうに見つめる中、進は「お騒がせしました」と短く一礼し、自分のデスクに戻った。
スマートフォンを開くと、案の定、高橋から電話に出ない進を激しくなじるメールが着信していた。
進の胸の中で、これまで生真面目さゆえに、そして過去の情ゆえに耐え続けてきた何かが、完全に、そして美しく決壊した。
(もう、1秒たりとも、この男に私の人生を切り売りするわけにはいかない)
進はパソコンを開き、キーボードを叩いた。一文字一文字が、高橋との過去を完全に叩き切る刃だった。
【凍土の刃】
進が打ち込んだメールの文面は、これまでの彼の優しさをすべて削ぎ落とした、あまりにも峻烈なものだった。
> 高橋様
> そう呼ばせて頂きます。
> もう友人ではないと考えるからです。
> 高橋様にとって、12時間など、どうでも良いのですか。
> 他人の事情は、どうでも良いのですね。
> そうであれば、もう結構です。
> 二度と連絡しないでください。
> 夜中に電話をかけてきたら、普通の人は怒ります。
> 私が疲れていることも、高橋様はご存知のはずです。何度も伝えました。
> 深夜、仕事が終わり、疲れ切った時の電話は、普通、不機嫌になります。
> でも私は不機嫌にならないように努力しました。
> 相手を見ての精一杯の気遣いです。
> そんな気遣いも分からないのでしょうか。
> 呆れたものです。
> それなら、勝手にされたら良いです。
> 「たかが12時間」とか仰らないで頂けますか。
> 「伊崎の気持ちはわかったよ」とか仰らないで頂けますか。
> 何も分かっていないのに、舐めたこと仰らないで頂けますか。
> そんなこと仰るなら、私と同じ仕事を、高橋様も、やってみられたらいかがでしょうか。
> やっみられてから、そういうことを仰ったらいかがですか。
> 分かったような口をきかないで頂けますか。
> それから奥様のことですが、ステージも、進行具合や転移の状況も、何も分からない状況で、私と相談して何が得られるのでしょうか。
> 全てを推測で話さざるを得ない会話は不毛だと誰でも分かります。
> 相談が無為な時間になることが確実です。
> いったい、何を相談されるおつもりなのでしょうか。
> あの日は疲れていたこともありますが、それだから話したくなかったのです。
> そんなことを、いちいち説明しないといけないのですか。
> くだらないことをいちいち言わせないで頂けますか。
> こんな馬鹿馬鹿しいことに使う時間が惜しいんです。
> だから0.01秒でも惜しいのです。
> そこまで言わないと分かりませんか。
> それほどまで、高橋様は鈍感なお方でしたか。
> 言外の意を察することは出来ないのですね。
> ハッキリ言います。
> あなたでなければ、時間を使って話したい相手はいっぱいいます。
> 0.01秒は例えです。
> 建設的で有益な時間にならないから、話したくないのです。
> 「俺が伊崎を否定したことがあるか?」って、毎回否定していたではありませんか。
> 今までの電話の内容を振り返って頂けますか。
> 講師や受講生のルッキズムの話にしても、わけの分からない陰謀論にしても、私の意見に対して、否定ばかりではありませんか。
> それが正しいかは別として、夜中に、私にそんな電話をすることをどう考えておられるのですか。
> 不毛な時間だとお考えになりませんか。
> 妻にも相談しました。
> 私とほぼ同意見でした。
> なぜ、ずっと応じているのか不思議だったと言われました。
> それが普通の感覚です。
> 絶縁です。
> もう二度と連絡しないでください。
> メールも電話もブロックさせて頂きました。
> コーランの一節に「口から飛び立った言葉は、二度と戻っては来ない」というのがあります。
> 言って良いことといけないことがあります。
> 言ってはいけないことを言ってしまわれた高橋様は、もう友人ではありません。
> 以上です。
> 永久にさようなら。
進は一気に打ち切ると、間髪入れずに、法律家としての冷徹な「警告文書」をもう一通、立て続けに送信した。
予備校への電凸という暴挙に出た男に対し、これ以上の猶予は破滅を意味する。
実務家としての段取りを、完全に作動させたのだ。
> 高橋様
> 以後、一切、私の職場・自宅・友人知人宅への連絡を通じ、私(伊崎進)と連絡を試みないでください。
> 私は、貴方様とは違う世界で生きてしていくことに致しました。
> ですから、仮にそうした形跡が認められる場合、あらゆる法的措置を取らせて頂く場合がございます。
> 以下の行為を厳にお断り致します。
> ①勤務先(予備校各本校など)への連絡
> ②自宅固定電話への連絡
> ③非通知または他の端末、固定電話による連絡
> ④郵便物を用いた連絡
> ⑤私の友人や身内を介した連絡
> ⑥直接対面で面会を試みる行為
> ⑦探偵や公的機関、民間企業等に所属の第三者を介して和解、説得、説明を試みる行為
> ⑧その他、何らかの方法で連絡を試みる行為一切
> 以上の通告は無期限のものであり、いかに時間が経過しようと、決して解かれることのない内容とご認識頂けたらと思います。
> 以上
送信ボタンをクリックする。
カチリ、という微かな音が、四半世紀に及ぶ歪んだ友情の、完全な葬送の鐘となった。
進はスマートフォンの通信設定を開き、高橋の番号とアドレスを永久にブロックした。
【京都市郊外の聖域、夜の抱擁】
その夜。難波校での最後の直前対策講義を終え、終電で京都市郊外のアパートに帰り着いたのは、やはり深夜1時を回っていた。
玄関を開けると、美智子がいつものように、座布団の上で心配そうに、背中を丸めて待っていた。
「進君……お帰りなさい。お昼のお電話……大丈夫だった?」
美智子は進の顔を見るなり、声をひそめて、そっと近づいてきた。
進は重いカバンを置くと、深く、しかしどこかすがすがしい溜め息をついて微笑んだ。
「あぁ、もう大丈夫だよ、美智子さん。今日、お昼に校舎に電話がかかってきてね。その場で、完全に終わらせる段取りを取った。メールで、二度と僕たちの世界に関わるなと、ハッキリ法的な警告も含めて突き放したよ」
進が今日送ったメールの文面を静かに伝えると、美智子は大きく目を見開き、それから「やっとだね」と、胸に手を当てて深く息を吐き出した。
「本当に良かった! 進君、ハッキリ言わなきゃダメなんだよ!あの人はね、進君のその、仏様みたいに優しすぎるところに、ずっと甘えて、おんぶにだっこでトゲを刺してたんだもん。私ね、進君が『昔の恩があるから』って悩んでるのを見るのが、一番心が痛かったんだよ」
美智子は進の前に座ると、彼の大きな、チョークの粉で荒れた手を、自分の両手でぎゅっと包み込んだ。
「でもね、進君。……進君がそれくらい優しすぎる人だったからこそ、私、進君と結婚できたんだよ?」
「え……?」
「私ね、いっつもお洗濯もお皿洗いも段取りよくできなくて、一度に一つのことしかできなくて……。普通の男の人だったら、きっと私みたいなの、愛想を尽かして捨てちゃうと思うの。でもね、進君は違った。私の悪いところも、不器用なところも、ぜんぜん怒らないで、いっつも世界一優しく守ってくれた」
美智子の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ、進の手の甲を濡らした。
彼女は泣き笑いのような、最高の笑顔を浮かべて言った。
「高橋さんに対する優しさは、もうダメ。でも、私に対するその優しさは……これからも、ずうっと使って。私、進君のその優しさののおかげで、毎日生きていられるんだから」
進は胸の奥が、熱いもので満たされていくのを感じた。
自分が守るべき「優しさ」の向け先は、過去の影で自分を呪う男ではない。
今、目の前で、不器用ながらも自分を全肯定し、愛してくれているこの最愛の妻と、そして明日、教壇の向こうで自分を信じて目を輝かせている受講生たちなのだ。
「あぁ……分かっているよ。僕の優しさは、君のものだ。もう二度と、あんな男に一瞬たりとも切り売りしないよ」
進は美智子の小さな身体を、向こうから強く、愛おしさを込めて抱きしめた。
深夜2時。外は静まり返り、もう不穏なベルの音が鳴り響くことはない。
進は美智子の淹れてくれた温かいお茶を飲み干すと、すっきりと冴え渡った頭で、明日、受講生たちに語るべき「合格への段取り」を、再び力強くノートに書き記し始めるのだった。




