第6章 進の静かなる対応
【狂気の予告通知】
あの日から数日後。今年の宅建試験を目前に控え、進の1日12時間労働はいよいよ過酷さを極めていた。
そんな中、再び高橋から一通のメールが届く。そこには、進の限界をあざ笑うかのような一方的な通告が記されていた。
『伊崎、今日の夜、必ずお前に電話する。深夜0時過ぎになる。奥の奥まで溜まった俺の胸の内を、今夜こそ全部聴いてもらうからな』
深夜0時過ぎ。
それは、関西一円の校舎を回って疲弊した進が、ようやく京都市郊外のアパートに辿り着くかどうかの時間だった。
しかも翌朝は、直前期の特別早朝特訓講義のため、5時半には起床して6時前の電車に乗らなければならない。
睡眠時間を削れば、翌日、目の前の教壇で何百人もの受講生に届ける言葉の「精度」が狂う。
進は限界だった。
引き裂かれそうな理性を何とか保ちながら、画面を叩くように返信を打ち込んだ。
『高橋、何度も言わせないでくれ。僕は明日、6時前に起きなければならない。深夜0時過ぎの長電話など、肉体的に絶対に不可能な段取りだ。もうこれ以上、僕の生活と仕事を脅かさないでくれ』
すぐに画面が明滅し、高橋からの返信が届く。そこには、かつての友の面影など微塵もない、醜い逆恨みの言葉が並んでいた。
『不可能な段取り? 睡眠時間が惜しいか? 偉くなったもんだな、伊崎先生。昔、お前が司法試験の受験生だったとき、俺が深夜だろうが何だろうが、自腹でお前の孤独に付き合ってやった恩を、お前は本当に忘れたんだな。俺の妻が死にかけてるっていうのに、自分の仕事と睡眠がそんなに大事か! お前には、人の血が通っていないのか!』
画面から飛び出してくるような、執拗な呪詛。
進は、その文字を見つめながら、頭が芯から冷えていくのを感じた。
(あぁ、もう、本当に終わりだ。僕がどれだけ言葉を尽くしても、今の彼には届かない。僕の優しさは、彼を救うためではなく、彼が僕を殴りつけるための踏み台にされていたんだ)
進は覚悟を決めた。これ以上のやり取りは、お互いの人生を修復不能なまでに破壊する。
『高橋、よく聞いてくれ。君が昔、僕に電話をくれたことには今でも感謝している。だが、だからといって、君が僕の今の人生や、僕を待っている受講生たちの人生を蹂躙していい理由にはならない。もう、君からの連絡には一切応じない。お互い、別の道を生きよう』
送信ボタンを押す。それが、二人の二度目であり、決定的な「絶縁」の段取りだった。
【優しさという名の絆】
夜、部屋の隅でその緊迫したやり取りをじっと見守っていた美智子が、冷たくなった進の手に、そっと温かいお茶の湯呑みを握らせた。
美智子の顔には、深い安堵と、切なさが混じり合っていた。
「進君……。メール、もうおしまい?」
「あぁ。もうおしまいだ、美智子さん。着信も、メールも、すべて拒否する段取りを取った。今度こそ、本当に終わりだよ」
進が力なく笑うと、美智子は少しだけ唇を尖らせて、はっきりとした口調で言った。
「……もっと早く、そうしたほうが良かったんだよ。進君は、本当に優しすぎる」
「僕が、優しすぎるか……。でも、冷たい人間だと思われたくなかったんだ。高橋の奥さんのこともあるしね」
「冷たくないよ!」
美智子は進の言葉を遮るように、強い声で言った。
「進君はね、優しすぎるの。だから、あの高橋さんみたいな悪魔の段取りに、ずっとお背中を刺されちゃってたんだよ。私、見てて本当につらかったんだから。でもね……」
美智子はそこで一瞬言葉を詰まらせると、自分の左手の薬指に嵌った一万円の指輪を愛おしそうに見つめ、それから照れくさそうに笑った。
「進君がその、バカみたいに優しすぎる人だからこそ……私、進君と結婚できたんだもん。私が一度に一つのことしかできなくて、お子どもも産めなくなっちゃっても、『ずっと一緒に暮らそう』って言ってくれた。進君が優しすぎる人で、私は世界一幸せなんだよ。だからね、その大事な優しさは、あんな意地悪な人のために使っちゃダメ。明日の、教室の受講生の人たちのために使ってあげて」
「美智子さん……」
論理もへったくれもない、純度100%の愛の全肯定。
進は湯呑みを持つ手にきゅっと力を込め、深く、深く頷いた。
「そうだね。僕の優しさは、君と、僕を信じてくれる受講生のためにある。高橋とのことは、これで完全に僕の中から葬り去るよ」
翌朝、進は約束通り5時半に起き、凛とした足取りで京都駅前の予備校校舎へと向かった。
心の中は、あの京都市郊外のアパートに残してきた美智子の笑顔のおかげで、不思議なほど穏やかに澄み渡っていた。
【予備校のベル、静かなる宣戦布告】
しかし、狂気に囚われた高橋の執着は、個人のスマートフォンを拒絶された程度で収まるものではなかった。
高橋は、進の自宅アパートを訪ねてくるようなことはしなかった。
そんな直接的な行動を起こすだけの気力は、今の彼には残っていなかったのかもしれない。
その代わり、彼は最悪のルートを選んだ。
直前期の熱気と緊張感が張り詰める、京都駅前の予備校校舎。
15時過ぎ、講義の合間の短い休み時間に、受付の固定電話がけたたましく鳴り響いた。
事務スタッフが怪訝な顔で受話器を取り、すぐに恐縮した面持ちで進のもとへやってきた。
「伊崎先生……東京の『高橋』とおっしゃる方からお電話です。先生の個人的なご友人のようですが、かなり興奮されているご様子で……お繋ぎしてもよろしいでしょうか?」
講師室内には、他の講師や、質問の順番を待つ受講生たちの気配があった。
進の背中に、冷たい戦慄が走る。
まさか、聖域である予備校の校舎に直接かけてくるとは。
(どこまで僕を、受講生たちを愚弄すれば気が済むんだ、高橋……!)
しかし今の進は、何百人もの人生を預かるプロの専任講師だった。
ここで感情に任せて大声を出し、予備校の空気を乱すような真似は、プロの段取りとして絶対に許されない。
進はすっと立ち上がると、事務スタッフに「ありがとうございます。僕が出ます」と静かに告げた。
受話器を受け取った進に、周りの目が集まっている。
進は決して大きな声は出さなかった。
驚くほど静かに、地を這うような淡々としたトーンで、受話器の向こうの狂気に向き合った。
「……もしもし、伊崎です」
受話器の向こうからは、高橋の罵声が漏れ聞こえてきた。
しかし、進の表情はピクリとも動かない。受講生たちの未来を守るため、そして美智子との平穏を守るため、進はここ予備校の校舎で、かつての戦友に対し、冷徹かつ断固たる「最後の措置」を取り始めるのだった。




