第5章 優し過ぎる進
【揺れる天秤、生真面目さの限界】
高橋から届いた『妻が、癌になってしまった』という短いメールは、進の心を激しくかき乱した。
つい数ヶ月前、美智子の子宮筋腫の手術で、生きた心地のしない夜を過ごしたばかりの進にとって、それは決して他人事とは思えなかった。
かつての戦友への怒りは、一瞬にして同情と、法律家崩れとしての「放っておけない」という生真面目な義務感へとすり替わっていく。
(高橋は今、どれほどの絶望の中にいるだろう。無職の彼が、奥さんの病気という現実を前に、一人で耐えられているはずがない……)
アパートの机で、進は明日の梅田校のレジュメに赤ペンを入れながら、なんとか高橋のために時間を作れないかと、手帳のスケジュールを必死に繰っていた。
しかし、現実は非情だった。
朝7時には家を出て予備校の自習室へ向かい、午前中の講義、午後の企業出張、夜間の難波校での熱血講義、そして深夜の教材研究。
分刻みの段取りで埋め尽くされた手帳には、関東にいる高橋に対して、じっくりと電話で相談に乗る隙間は残されていなかった。
懊悩した進は、予備校の仕事を通じて知り合った、信頼できる一人の医師に連絡を取り、状況を伏せて相談してみることにした。
高橋の妻の深刻な状況を救う、医学的な段取りだけでもアドバイスできないかと考えたのだ。
しかし、その医師の返答は、進の感傷をばっさりと切り捨てる冷徹なものだった。
「伊崎先生、お気持ちは分かりますがね、そういう病気の相談は、素人がいくら親身になって乗ったところでどうしようもないんですよ」
「……どうしようもない、ですか?」
「ええ。癌の進行が進んでいようが、いまいが、私たち医師の診察を受けて、適切な医療機関にすべてを委ねる。それしか命を救う道はないんです。あなたが専門外の知識で下手な気休めを言ったり、一緒に悩んだりすることは、かえってそのご夫婦にとって時間ロスになりかねません。医療の段取りは、医療のプロに任せるべきです」
医師の言葉は、ぐうの音も出ないほど正論だった。
進はハッとさせられた。
自分が良かれと思って高橋の愚痴や不安を受け止めることは、ただの自己満足であり、高橋の妻の治療には一ミリも寄与しないのだ。
進は医師に聞いた言葉を頭の中で整理し、そのまま丁寧な文章にして高橋にメールを送った。
『奥様のことは本当に心が痛む。だが、僕たち素人が悩んでも解決はしない。一刻も早く信頼できる医師の診察を受け、医療機関の判断にすべてを委ねてほしい。それが今、君が奥様のためにできる最善の段取りだ』と。
【目の前の戦場、迫る書き入れ時】
しかし、高橋からの返信は、進の願いを裏切るものだった。
『伊崎、正論はもういいんだ。医者にはもう診せている。俺が聴いてほしいのは、そんなことじゃない。俺のこの張り裂けそうな胸の内を、どうしても直接相談したいんだ。頼む、時間をくれ』
(どうしても、相談したい……)
スマホの画面を見つめながら、進は深く溜め息をついた。
もう、季節は秋へと向かっていた。
今年の宅建試験本番が、いよいよ目の前にまで迫っている。
予備校業界にとって、この直前期こそが一年で最大の「書き入れ時」だった。
受講生たちの目の色が変わっている。
進が担当する京都、梅田、難波、天王寺のどの教室も、一発合格を狙う人々の執念で、耳鳴りがするほどの熱気に包まれていた。
進自身、今は1日に12時間以上、文字通り命を削って教壇に立ち、レジュメを刷り、質問に答える日々を送っている。
進は、これ以上は無理だと判断し、心を鬼にして短いメールを返した。
『今は試験直前期で、1日に12時間働いている。肉体的にも精神的にも、どうしても相談に乗る時間を割くことができない。本当にすまない』
それが、進にできる精一杯の拒絶であり、受講生たちの人生を背負うプロ講師としての、意地の段取りだった。
【美智子の沈黙】
夜、京都市右京区のアパート。
進がメールを送り終え、疲れ果ててパイプ椅子に深く身体を預けたとき、お茶を運んできた美智子が、その様子をじっと見つめていた。
いつもなら、高橋の名前が出ただけで「そんな悪魔の段取り、絶対にダメ!」と怒り出す美智子だった。
しかし、この夜の彼女は違っていた。
美智子は、カタ…と静かに湯呑みを机に置くと、何かを言いたそうに、その薄い唇を微かに動かした。
(進君……もう、あの人に関わるのはやめて。進君が壊れちゃうよ……)
彼女の瞳には、そんな強い訴えが浮かんでいるように見えた。
一度に一つのことしかできない美智子だからこそ、今、進が「宅建試験」という目の前の巨大な戦場だけに100%の力を注がなければならないことを察していたのかもしれない。
しかし、美智子は結局、何も言わなかった。
高橋の妻が癌であるという重い現実を前に、自分がこれ以上口を挟めば、心優しい進をさらに苦しめてしまうと考えたのだろう。
彼女はただ、そっと進の硬くなった肩に手を置き、不器用に向こうから一晩中、寄り添い続けた。
「……ありがとう、美智子さん」
「ううん。明日も授業、頑張ってね」
美智子は小さく微笑んだ。
この時、二人はまだ知らなかった。
進が下した「1日12時間働いているから無理だ」という正当な拒絶の段取りが、追い詰められ、狂気に染まった高橋のプライドを、完全に粉砕してしまったということを。
そして、直前期の熱気で爆発しそうになっていた京都駅前の予備校校舎に、決定的な「あの日」が、すぐそこまで足音を立てずに迫っていた。
二人のささやかな幸福と、進の講師生命を揺るがす静かな波乱が、ついに幕を開けようとしていた。




