第4章 高橋の暴走
【深夜の歪んだ論理、忍び寄る限界】
高橋からの電話は、ついに深夜3時を回っても終わらなくなった。
関西四方の教壇を駆け巡り、心身ともに限界を迎えている進の耳元で、受話器の向こうの高橋の声は、以前にも増して異様な熱を帯び、攻撃的な持論をまき散らし続けていた。
『おい、伊崎、聴いてるか? お前のいる予備校業界だってどうせ同じだろ。専任講師の採用なんて、結局はルッキズム、見た目の良さで決まってるんだよ。どんなに実力があっても、顔のいい奴が優遇される。くだらない世の中さ』
「高橋、それは違う。受講生は人生を懸けているんだ。見た目だけで合格実績が出るほど、甘い世界じゃない……」
進が掠れた声で反論しようとするが、高橋はそれを遮るように、さらに声を荒げた。
『そうか。だったら本質は学歴だな! 私大卒は絶対に国公立大学卒に敵わないんだ。しかもその学歴だって、親の収入で最初から決まってる。それなのに、国や自治体が貧困層に金を配らないのは絶対におかしい! 全部、一部の権力者が裏で操っている陰謀なんだよ。今、日本を救えるのは、あの少数野党の指導者しかいない。彼だけが世界の裏の仕組みを暴こうとしているんだ!』
延々と続く、極端な政治賛美と陰謀論。
かつて同じ法律を学び、論理的な思考を叩き込まれたはずの戦友の変わり果てた姿に、進は受話器を握ったまま、ただ深い目眩を覚えていた。
ある夜には、さらに信じられない誘いが飛んできた。
『あ、そうだ伊崎。今度、俺たちの母校の高校が地方予選で優勝したんだ。甲子園に出るんだ。お前、仕事を休んで一緒に応援に行こうぜ』
「……何を言ってるんだ、高橋。僕にはその日も梅田校で講義がある。いっぱい受講生が僕を待っているんだ。仕事を休めるわけがないだろう」
『堅いことを言うなよ! 仕事なんかサボっちゃえばいいんだよ。お前は昔からそういう融通が利かないんだ。少しくらい息抜きしろよ』
「サボる……? 受講生の人生がかかっているんだぞ。そんなこと、僕には絶対にできない」
また別の日。
高橋は、進に酷い言葉を浴びせた。
『お前は親がいないから気楽でいいよな。守るべき両親の重みも知らないで生きていけて最高だよな』
ムッとする進。
それでも進は黙っていた。
『だいたいさ、昔、お前が司法試験に挑戦してた時、俺がわざわざ自腹で、長距離の電話を何回掛けてやったと思ってるんだ。あの当時にいくら金を使ったか、お前、分かってんのか!?』
「高橋、お前……」
親がいないという言葉、そして過去の「投資」を盾にした脅しのような物言い。
進の胸の奥で、何かがパチンと音を立てて弾けそうになった。
それでも生真面目すぎる進は、拳を血がにじむほど強く握りしめ、ただじっと耐えていた。
【台所の憤慨、美智子の真っ直ぐな怒り】
通話を終え、スマートフォンを机に置いた進は、そのまま座布団の上に崩れ落ちるように横たわった。時計の針は午前3時半を指している。
「進君……!」
もう寝ているとばかり思っていた美智子が、怒りで顔を真っ赤にしながら話しかけてきた。
彼女は進の隣に勢いよく座り込んだ。
「なんなの、その高橋って人! みんな聞こえた。聴いてて本当に腹が立った」
「美智子さん……聴こえていたのか」
「聴こえるよ! 大きな声でワーワー言って! なにがルッキズムよ! なにがサボっちゃえよ! 進君が毎日、どれだけ命を削ってレジュメを作って、梅田や難波まで重いカバンを持って通ってるか、あの人は何にも分かってない!」
美智子は拳をきゅっと握りしめ、まるで自分が侮辱されたかのように悔しそうに涙を浮かべた。
「お仕事サボれだなんて、そんなの、進君に対する一番のいじわるだよ! それに、親がいないから気楽だなんて、絶対に言っちゃいけない言葉だよ! 」
「……あぁ。でもね、美智子さん。彼は昔、僕が孤独だったときに、たくさん長距離電話をくれたんだ。あの時のお金の話を出されると、どうしても、突き放すことができなくてね……」
進が力なく呟くと、美智子は進の両手を向こうからぎゅっと、痛いほどの力で包み込んだ。
そして、進の目を真っ正面から見つめて、はっきりと言い放った。
「それは違うよ。本当のお友達はね、『いくら使った』なんて、そんなこと絶対に言わない!」
「美智子さん……」
「その高橋さんって人は、進君が自分より立派になって、みんなに頼りにされる先生になったのが、悔しくてたまらないだけだよ。だから変なお話ばっかりして、進君を自分と同じ暗いところに引っ張り落とそうとしてるの。そんなの、お友達じゃない! 悪魔だよ!」
美智子の混じり気のない、烈火のような批判。
彼女の言葉は人間の本質を正確に射抜いていた。
進は美智子の怒りの中に、自分への深い愛情を感じ、胸の奥が熱くなるのを覚えた。
「そうだね……。言う通りだ。今度こそ、心を鬼にして、彼との関係を完全に切らないといけないな。僕には、守るべき君がいて、待ってくれている受講生がいるんだから」
「うん! 絶対にそうして!」
美智子のハキハキとした言葉に、進は深く頷いた。
今度こそ、高橋からの連絡はすべて無視しよう。そう心に誓った。
【届いたメール、最悪の段取り】
しかし、人間の情というものは、そう簡単に割り切れるものではなかった。
次の日の夜、天王寺校での講義を終え、終電の揺れの中で進がスマートフォンを開いたとき、一通のメールが届いていた。
送信者は、高橋だった。
着信拒否をしようと画面を操作しかけた進の手が、メールの件名を見た瞬間、ピタリと止まった。
『妻が、癌になってしまった』
本文には、殴り書きのような短い文章が並んでいた。
高橋の妻が病院での検査の結果、進行性の癌であると診断されたこと。
これから先の治療の不安、そして、かつてエリートだった自分が今や低収入で、ステージ次第では、支える経済力も精神力もないという、絶望に満ちた告白が綴られていた。
「……っ」
電車のシートに座ったまま、進は息を呑んだ。
つい先日、最愛の妻である美智子の子宮筋腫の手術を経験し、病という魔物がどれほど容赦なく二人の未来を脅かすかを、進は身をもって知っていた。
もし、あの手術の時に、自分に仕事がなく、お金もなく、孤独のどん底にいたとしたら――そう想像しただけで、背筋に冷たいものが走る。
高橋のこれまでの数々の非道な言葉、身勝手な振る舞いへの怒りが、その一通のメールによって、一瞬にして複雑な葛藤へと塗り替えられていく。
(高橋……お前、今、どんな気持ちでその画面を見つめているんだ……)
アパートの最寄り駅につき、京都市郊外の夜道を歩きながらも、進の頭の中はそのメールのことで一杯だった。
心を鬼にして縁を切ると決めたはずなのに、友の「妻の命の危機」という最悪の段取りを前にして、進の生真面目すぎる心は、再び激しく揺れ動き始めていた。




