第3章 高橋との和解と苦悩の再来
【受話器の向こうの変調】
美智子と二人でお皿を洗い、遅い夜食を囲んでから数日後のことだった。
深夜、京都の右京区のアパートに、かつて何度も耳にしたあの懐かしいベルの音が響いた。
携帯電話の画面に表示されたのは、東京にいる高橋の名前だった。
前回の痛烈な絶縁宣言から数ヶ月。
進は少し身構えながらも、生存本能のような胸の騒ぎを抑えて通話ボタンを押した。
「……もしもし、伊崎です」
『あ、伊崎か。……夜分遅くにすまない。俺だ、高橋だ』
スピーカーから聞こえてきた高橋の声は、前回の傲慢な冷酷さとは打って変わり、酷く掠れて力のないものだった。高橋は、震える声で言った。
『……この前の電話、本当にすまなかった。俺はどうかしていた。お前が極貧の中でどれだけ血の滲むような努力をしてきたか、俺が一番よく知っていたはずなのに。あんな酷い言葉を投げつけて……お前という一番の戦友を、俺のエゴで傷つけてしまった。本当に、本当に申し訳ない』
受話器の向こうから、かつての戦友の、涙を堪えるような鼻をすする音が聞こえてくる。
2人でなけなしのお金を出し合い、1セットの講義テープを半分こにして回し合った大学時代の光景が、進の脳裏をよぎった。
生真面目すぎる進は、一度は激昂したものの、こうして真摯に頭を下げられると、それ以上彼を突き放すことができなかった。
「……分かったよ、高橋。もういいんだ。お前も東京で、おっきな組織の歯車として、僕には分からないような凄まじいプレッシャーと戦っていたんだろう。気にしていないよ」
進は高橋の謝罪を受け入れた。
美智子との静かな生活、そして予備校での充実した日々が、進の心に他者を許すゆとりを与えていたのも事実だった。
しかし、この「優しさ」の段取りこそが、さらなる泥沼の始まりだった。
【堕ちたエリートと、エンドレスの呪詛】
謝罪を受け入れてからの高橋は、以前にも増して執拗に、そして目に見えて「面倒な男」へと変貌していった。
高橋からの電話は、週に何度も、それも進が関西四方の校舎から深夜に帰宅する時間を見計らったかのように、執拗にかかってくるようになった。
そして何より進を驚かせたのは、高橋が「証券会社を辞めていた」という事実だった。
バブル最後の年に滑り込み、絵に描いたようなエリート街道を走っていたはずの高橋。
しかし、バブル崩壊後の激動の波と組織の論理に翻弄された彼は、そのプライドをズタズタに引き裂かれ、会社を追われるように退職していたのだ。
名も知れない小さな職場で働き、東京近郊で燻る高橋の心は、完全に歪んでしまっていた。
電話のたびに、高橋の口から飛び出すのは、社会への凄まじい怨嗟と呪詛ばかりだった。
『おい、伊崎、聴いてくれよ。今日、用事があって市役所に行ったんだが、あそこの職員どもはバカばかりだ。窓口の奴の知識なんて素人以下だよ。法令もまともに理解していない不勉強で愚かな連中ばかりが、俺たちの税金で飯を食っている。世の中腐ってる!』
「高橋、地方公務員の窓口業務というのは、いろんな事務を担当しないといけないから、それは難しいんじゃ……」
『何言ってるんだ。あいつら、税金で食ってるんだよ。良いご身分だよ。さすがお役所仕事だよ。それだけじゃない!日本の官僚やトップの政治家どもは腐りきってる!東大を出ていたって、中身は空っぽの奴らばかりだ。この前も市役所に行って説教してやったよ。俺がわざわざ時間を作って出向いてやってるのに、あいつら、お茶の1つも出せないし、お礼の1つもまともに言えない』
最初は親身になって聴いていた進だったが、深夜2時に京都、梅田、難波、天王寺の講義を終え、枯れ果てた身体でこのエンドレスな愚痴に付き合わされるのは、もはや精神的な拷問に近かった。
高橋の話は、北方領土問題、東京都知事選挙、原発問題、教育問題、食の安全性の問題と、とりとめなく広がった。かつて共に法律家を目指した「リーガルマインド」の欠片もなく、ただひたすら根拠の乏しい陰謀論が、延々と展開された。
「……高橋、悪いが、明日も朝から難波校で業法の講義があるんだ。もう切るよ」
『おい、待てよ伊崎! お前だけは俺の話を聴いてくれるだろ』
「もう、うんざりだ」
進は心底疲弊した面持ちで、スマホを机に投げ出した。
【優しすぎる背中、張り詰めた糸】
「進君……」
冷めた緑茶を新しく淹れ直しながら、美智子が心配そうに進の横顔を見つめていた。
彼女は、進が高橋からの電話を受けるたび、どんどん生気を吸い取られ、生真面目な眉間に深いシワが刻まれていくのを、居間の隅でハラハラしながら見守っていたのだ。
美智子は湯呑みをそっと机に置くと、いつになく真剣なトーンで進に言った。
「進君。私、勉強のことは分かんないけど……進君は、ちょっと優しすぎるよ」
「……僕が、優しすぎる?」
「そうだよ。その高橋さんって人、いっつも自分のことばっかりで、進君が明日もお授業で朝が早いこと、ぜんぶ忘れちゃってる。進君がどれだけ疲れて帰ってきてるか、ちっとも考えてくれてないもん。そんなの、本当の友達じゃないよ」
一度に一つのことしかできない美智子だからこそ、進が「高橋の相手」と「明日の講義の準備」という二つの過酷なタスクの間で、今にもすり減って壊れてしまいそうなのが、誰よりもはっきりと見えていた。
「あの人はね、進君をゴミ箱代わりにして、自分の汚い言葉をぜんぶ捨てに来てるだけだよ。進君がそんなに一生懸命、頭を痛くしてお話を聴いてあげる必要なんて、絶対にない!」
「美智子さん……。でも、彼は僕が一番苦しかった時に、固定電話の向こうで僕を支えてくれたんだ。あの時の恩を、僕はどうしても……」
「それは昔のことでしょ! 今のあの人は、進君を傷つけてる!」
美智子はそう言い放ち、進の大きな手をぎゅっと握った。
「私はね、進君が一生懸命に授業をして、受講生から『伊崎先生!』って喜ばれてる姿が一番大好きなの。あんなバカバカしい電話のせいで、進君の大切なエネルギーがなくなっちゃうの、おかしいよ」
「……美智子さん」
最愛の妻からの、あまりにも真っ直ぐな、自分を守るための全肯定。
進は、自分の生真面目さが、結果として美智子にも余計な心配をかけ、自分自身を追い詰めていたことに気づかされた。
「分かったよ。次からは、少し距離を置く段取りを考える。ありがとう、美智子さん」
進は美智子の頭を優しく撫で、張り詰めた心を少しだけ緩めた。
しかし、歪みきった高橋の執着は、進の「優しさ」による猶予を、とっくに踏みにじる段階にまで達していた。
この数日後、京都駅前の予備校校舎の帰りに、進がこれまでの全人生において、一度も出したことのないような怒りを静かに爆発させる、決定的な大事件が勃発することになるのだ。




