第2章 美智子の新たな苦悩
【終電のプラットホーム、四方の教壇】
予備校講師としての伊崎進の評価は、うなぎ上りに高まっていた。
「試験科目を物語のように噛み砕く、分かりやすい講義」という評判は口コミで広がり、進のスケジュールは瞬く間に全国区の大手予備校の段取りによって埋め尽くされていった。
彼の主戦場は、地元である京都の校舎だけにとどまらなかった。
月曜日は京都、火曜日は大阪の巨大なターミナル駅にそびえ立つ梅田校、水曜日は熱気溢れる難波校、木曜日は天王寺校。さらには金曜日になると、大手不動産会社や建築企業からのオファーを受け、新入社員や中堅社員向けの「宅建社内研修」のために、関西一円へ出張講義に赴く日々が始まった。
多くの受講生の熱視線を浴び、チョークを握って声を枯らす毎日。
授業が終われば、質問に来る受講生の列を一人ひとり丁寧に対応し、気づけば時計の針は22時をとうに回っている。
そこからテキストやレジュメの詰まった重いカバンを引きずり、阪急京都線やJRの終電に飛び乗る。
京都の右京区のアパートに辿り着き、玄関の鍵を開ける頃には、いつも深夜の1時や2時を過ぎていた。
「ただいま、美智子さん……」
疲れ果ててネクタイを緩める進を迎えるのは、静まり返った部屋と、申し訳なさそうに座布団の上に正座している美智子の姿だった。
部屋を見渡すと、洗濯物は取り込まれたものの畳まれずに山積みになっており、台所には夕飯に使ったとおぼしきお皿が、洗われないままシンクに残っている。
「あ、進君……お帰りなさい。ごめんなさい、今日も夜遅くまで頑張ってくれたのに、お家のこと、全然段取りよくできなくって……」
美智子はいつもの元気を失くし、小さく身を縮めていた。
「いいんだよ、美智子さん。僕の帰りが遅すぎるのがいけないんだ。気にしないで、もう寝よう」
進は優しく声をかけたが、こうした夜は、美智子の退院後から何度も、何度も繰り返されていた。
【二つの時計、一つの器】
美智子は決して、怠けているわけではなかった。
むしろ、深夜に帰ってくる進を少しでも綺麗な部屋で迎えたい、美味しいご飯を食べさせたいと、人一倍強く願っていた。
それなのに、どうしても家事が効率良くこなせないのだ。
後に、医療の現場や世間で「発達障害(ADHDやASD)」という概念が広く知られるようになり、美智子自身もその診断を受けることになるのだが、当時の二人にはまだ、その原因が分からなかった。
美智子の脳内は、一度に「二つのこと」を並行して処理することがどうしてもできなかった。
お味噌汁の鍋を火にかけながら、ふと気になった洗濯物を畳み始めると、もう頭の中からお味噌汁の段取りが完全に消え去ってしまう。
気がついた時には鍋が激しく吹きこぼれ、慌てて火を消すと、今度は何をしようとしていたのか分からなくなり、パニックになって固まってしまうのだ。
「お洗濯をしながら、お皿を洗う」
「お肉を焼きながら、お野菜を切る」
世間の多くの人が無意識に行っている「マルチタスク」という段取りが、美智子にとっては、まるで行く手を阻む巨大な壁のようだった。
一つのことに集中すると周りが見えなくなり、別の刺激が入ると前の記憶がトビウオのように跳ねて消えてしまう。
「進君、私ね、一生懸命やってるの。頭の中でいっぱい考えようとするの。でもね、ひとつのことをやろうとすると、他のことがどこかへ行っちゃうの…。」
美智子は自分の不器用な両手を見つめながら、涙をポロポロと畳にこぼした。
「焦げたお魚しか作れないし、お部屋もぐちゃぐちゃにしちゃうし。私、進君の足を引っ張ってばっかりだね」
【命の段取り、二人の歩幅】
自分を責める美智子の姿を見て、進は胸が締め付けられるように痛んだ。
大手予備校の講師室で、他の講師たちが「うちの妻は家事を完璧にこなしてくれて、俺は仕事に集中できる」などと話しているのを耳にするたび、進は静かに怒りを燃やしていた。
(家事が完璧にできることが、妻の価値なのか? 一度に二つのことができないからと言って、美智子さんの何が劣っているというんだ)
進は美智子の前に静かに腰を下ろすと、彼女の涙で濡れた手を、自分の大きな掌でそっと包み込んだ。
そして、教壇で何百人もの受講生を惹きつける、あの深く、確かなトーンで語りかけた。
「美智子さん」
進は優しく微笑んだ。
「役所でも会社でも、あれもこれも同時にやろうとしたら、パニックを起こしてしまう」
「役所でも、会社でも…?」
「そう。だからね、美智子さんが一度に一つのことしかできないのは、別に良いんだ。一生懸命にやってるんだから、それで良いんだ」
進は台所のシンクを振り返り、それから畳の上の洗濯物の山を見た。
「お味噌汁を作るときは、お味噌汁のことだけを考えればいい。お皿洗いは、僕が帰ってきてから一緒にやればいいんだ。うちでは、二つのことを同時にやらなくていいんだよ」
美智子は進の言葉を反芻するように、小さな唇をかすかに動かした。
それから、じわじわと胸の奥が温かくなったように、いつもの春の日差しのような微笑みを、少しだけ取り戻した。
「……一つのことだけで、いいの?」
「あぁ、一つだけでいい。美智子さんが今日、無事に生きて、この部屋で僕の帰りを待っててくれた。それだけで、今日の美智子さんの家事の段取りは、100点満点だよ」
「進君……本当に優しい」
美智子は泣き笑いのような顔をした。
京都、梅田、難波、天王寺。
どんなに華やかな教壇で喝采を浴びようとも、進にとって帰るべき聖域は、京都の、不器用で一度に一つのことしかできない最愛の女性が待つ部屋だけだった。
深夜2時。進はスーツの上着を脱ぐと、「さあ、今日最後の段取りだ」と言って、美智子と一緒に並んでお皿を洗い始めた。
二人の歩幅は、世間のいう『普通』からは大きく外れていたかもしれない。
けれど、一つのことを丁寧に、二人で分け合いながら進むこの静かな夜の中にこそ、誰にも侵せない、確かな幸福の輪郭が形作られていくのだった。




