第1章 高橋との思い出と訣別
【黒い画面の向こうの、残像】
高橋との通話を切ったスマートフォンは、机の上で冷たく沈黙していた。
先ほどまでスピーカーから鳴り響いていた罵声が、まるで嘘のように静まり返った居間で、進はしばらくの間、自分の大きな掌を見つめたまま動けずにいた。
美智子が淹れてくれた温かい緑茶の湯呑みから、白い湯気がゆったりと立ち上る。
進はその湯呑みを両手で包み込むように持ち、一口、ゆっくりと喉に流し込んだ。
温かい液体が身体に染み渡るのと同時に、進の胸の奥から、セピア色に変色した四半世紀以上前の記憶が、堰を切ったように溢れ出してきた。
「……進君? まだ、高橋さんの言葉を思い出すの?」
美智子が隣で、進の顔を覗き込むようにして心配そうに声をかけた。
進は首を横に振り、遠い目をして小さく笑った。
「いや……怒りはもう、ないんだ。ただね、思い出していたんだよ。彼と僕が、本当に同じ夢を見て、同じ地べたを這いずり回っていた頃の計画をね」
「高橋さんと、進君の……大学のときのお話?」
「あぁ」
進は湯呑みを置くと、静かに語り始めた。
「大学時代、僕と高橋は本当に貧乏だった。司法試験の合格を目指してはいたけれど、高い予備校の講座なんてとても買えなくてね。ある時、大手の有名な先生の講義テープが売り出されたんだ。どうしてもそれが欲しくて、僕と高橋はなけなしのバイト代を、お互いに一円単位まで出し合って、2人で1セットの講義テープを買ったんだよ」
「へぇ……2人で半分こしたんだ」
美智子は、目を丸くして聴き入った。
「そう。1人がテープを聴いて講義録にメモを書き写したら、もう1人にそのテープを渡す。それを何度も何度も繰り返した。あの時の僕たちは、間違いなく同じ方向を向いていたし、お互いを日本一の戦友だと、最高の仲間だと思って疑わなかったんだ」
【バブルの足音と、それぞれの段取り】
しかし、進の言葉のトーンが、少しだけ寂しげに落ちた。
「でもね、大学4年の春だった。高橋が突然、僕の前で『俺、もう受験はしない』って言い出したんだ。明日からは就職活動を始める、って」
「……ショックだった?」
「凄くショックだったよ。昨日まで一緒にテープを回し合っていた仲間が、突然、僕を一人残して別のレールに飛び移ってしまったんだから。裏切られたような、置いていかれたような、言いようのない孤独に襲われた。だけど……」
進は一拍置き、美智子の目を真っ直ぐに見つめた。
「それでも数ヶ月後、高橋が大手証券会社に内定を貰ったと報告してきた時は、僕は心から『おめでとう』って彼を祝福したんだ。周りの奴らはみんな、高橋を冷ややかな目で見ていたんだよ。『あいつは3浪もしているんだから、まともな就職なんて無理に決まっている』ってね。当時は浪人回数に、世間は今よりずっと厳しかったから」
「3回も浪人してたの? じゃあ、大変だったね」
「あぁ。ただ、あの年は本当に特殊だったんだ。…バブル最後の年だった。今思えば、信じられないような好景気の、まさに最後の滑り込みだったんだよ。時代が幸いして、高橋は誰もが羨むような大企業のエリート街道へ進むことができたんだ。彼が必死に就職活動の段取りを組んで、チャンスを掴み取った姿は、僕にとっても誇らしかった」
進の脳裏に、内定通知書を手に「伊崎、俺、やったよ!」と居酒屋で涙を流していた若き日の高橋の姿が、鮮やかによみがえった。あの時の祝福の気持ちに、一片の嘘もなかった。
【ベルの音と、消え去った距離】
「大学を卒業して、僕はそのまま京都の狭い部屋で浪人生活を続け、高橋は東京の本社で働き始めた。住む世界も、持っているお金も、全く違うものになってしまったけれど……それでも、高橋からは本当によく電話がかかってきたんだ」
進は居間の壁の隅に視線をやった。今はもうない、かつての黒い固定電話の残像を追うように。
「当時は今みたいな携帯電話なんてないから、アパートの固定電話に電話したんだ。夜遅く、ジリリリンってベルが鳴ると、決まって高橋だった。東京での仕事の愚痴をこぼしたり、僕の勉強の進み具合を気にしてくれたり……。高橋がさっき言っていた通り、あの頃の彼は、高い長距離の通話代をいくら使ってでも、僕という存在を繋ぎ止めておきたかったんだろうね。僕も、そのベルの音に、どれだけ救われたか分からない」
進の話をじっと聴いていた美智子は、ふっと切なそうな表情を浮かべ、進の手の上に自分の不器用な手を重ねた。
「高橋さんも、本当は寂しかったのかもね。おっきな会社で競争して、誰も信じられなくなって……。だから、いっつも一生懸命お勉強して、嘘をつかない進君の声を聴いて、安心したかったんじゃないのかなぁ」
美智子の言葉の中に、かつての友への、ほんの少しの哀れみが混じる。
「……そうかもしれないね」
進は小さく頷いた。
「高橋は、あの固定電話の向こうにいた『司法試験に向かって泥を啜っている伊崎進』を、ずっと愛していたんだと思う。僕がそのまま弁護士や検事になっていれば、彼は『俺の目に狂いはなかった』と、自分の人生を肯定できたんだろう。……だけど、僕は彼の段取り通りには動かなかった。予備校の教壇という、彼にとっては理解できない場所を選んでしまった。だから彼は、裏切られたと感じて、あんなに怒ったんだ」
進はもう一度、引き出しの奥に仕舞った携帯電話に目をやった。
あの固定電話のベルの音とともにあった、美しくも泥臭かった青春の残像。
それはもう、二度と戻ってはこない。
高橋は組織の歯車として、自分は予備校の教壇という名の荒野で、それぞれが選んだ全く別の人生を生き抜くしかないのだ。
「もう、電話は鳴らないね」
進がぽつりと言うと、美智子は繋いだ手にぎゅっと力を込めて、キッパリと言い放った。
「鳴らなくっていいよ! そんな電話は、今の進君には必要ないもん!これからはね、私がお家の中で、進君に毎日いっぱい話しかけてあげる!進君、お茶のおかわり、いる?」
「あぁ、もらうよ。美智子さん」
進は胸の奥の感傷を綺麗な思い出としてそっと仕舞い込み、新しいノートに向き直った。
過去の戦友がくれた絆への感謝と、決別の痛み。
そのすべてをチョークを握る右手に込めて、伊崎進は明日、自分を待っている受験生たちのために、再び力強く歩み出すのだった。




