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第3章 誰からも理解されないのか

【光の影、憑りつかれた夜】


 美智子が子宮筋腫の手術を終え、鳴滝のアパートに戻ってきてから数ヶ月。

 進はこれまで以上に、狂気とも言える熱量で予備校の教壇に立ち続けていた。


 何百人もの受講生がひしめく大教室の壇上に立ち、その視線を一身に浴びる快感。

 それは、極貧の浪人生活を送り、社会の周縁を彷徨う「何者でもない男」だった進にとって、人生で初めて手にした正当な「居場所」だった。

 進が心血を注いで作成したオリジナルレジュメは、受講生たちの間で「これさえやれば受かる」とバイブルのように崇められ、合格実績という冷徹な数字が、彼の正しさを証明する勲章のように積み上がっていく。


 しかし、その眩い光の影で、進の足元には深い亀裂が走っていた。


 夜、深夜2時を過ぎても、進は居間の机にへばりつき、憑りつかれたように教材研究に没頭していた。

 カチカチと狂ったように響くシャープペンの音。

 その傍らで、美智子は布団にも入らず、心配そうにその背中を見つめ続けていた。


「進君……もう夜中だよ? 明日もお仕事があるんでしょ? 一回お布団に入って、段取りを組み直そう?」


 美智子が労るように声をかける。しかし、進は振り返りもせず、血走った目でノートにペンを走らせ続けた。


 「ダメだ、美智子さん。まだ足りない。明日の法令上の制限、もっと説明を工夫しないと受講生が置いていかれる。僕が妥協したら、あの人たちの人生が終わるんだ」


 進を突き動かしているのは、純粋な教育への情熱か、それとも、またあの暗闇の極貧生活へ逆戻りするのではないかという「過去の飢餓感」への恐怖か。

 美智子には、教壇で喝采を浴びる進の笑顔の奥にある、決して癒えることのない深い孤独が透けて見えているようだった。


 さらに進を苛んでいたのは、講師室の歪んだ空気だった。

 一歩教壇を降りて講師室を見渡せば、そこには独特の諦念が漂っている。

 宅建や行政書士を担当する講師の多くは、かつて司法試験という巨大な壁に挑み、そして敗れ去った「断念組」だった。

 彼らにとって教壇は、情熱を傾ける舞台ではなく、夢破れた後の食い扶持であり、一時的な「寄港地」に過ぎない。

 より高い報酬を提示されれば、昨日まで「絶対に合格させます」と誓った受講生たちを置き去りにして、渡り鳥のように別の予備校へと飛び去っていく。


 そんな講師たちの冷めた背中を、進は軽蔑と共に見つめていた。


(僕は違う。僕は、誰かに勝つためや、単なる食い扶持のためにここにいるんじゃない。この言葉を届けるために、ここに命を懸けているんだ)


 しかし、その純粋すぎる情熱こそが、かつての恩師や友にとっては「理解不能な狂気」であり、「道を外れた落伍者の言い訳」として映っていくのだった。


【恩師からの楔、戦友からの借用書】


 その孤独の引き金は、立て続けにやってきた。


 少し前、中学時代の恩師であり、進の型破りな才能を誰よりも信じてくれた伊勢先生を、進は久しぶりに訪ねていた。

 伊勢先生は美術教師としての顔を持つ傍ら、独自の鮮烈な色彩感覚で個展を開くほどの芸術家でもあった。

 信州・松本の静かなギャラリーに並んだ伊勢先生の絵画は、どこか人生の本質を射抜くような厳しさを湛えていた。


 久々の再会に胸を躍らせる進だったが、伊勢先生は自ら筆を置いたばかりのキャンバスを見つめたまま、静かに、しかし冷徹に口を開いた。


「進、予備校で立派な仕事をしていると聞いたよ。合格実績も素晴らしいそうだ。だが……」


「だが、何でしょうか、伊勢先生」


「私は君が、法律家になると信じていた。予備校の講師として、ただ『効率』や『点数の取り方』を教えるだけの存在で、本当に君は満足しているのかね」


 進は言葉を失った。芸術家らしい審美眼で、自分の生き方の「歪み」を真っ向から否定された気がした。


「伊勢先生、私は今の場所で、法律の盾を持たない人々を救うための第一歩を教えているつもりです……!」


「今の君は、麓の広場で群衆から喝采を浴びているだけで満足しているように見える。残念だよ」


 恩師から投げつけられた「残念」という名の氷の楔。それが進の胸に深く突き刺さり、血を流させていた。


 さらに追い打ちをかけたのは、大学時代の司法試験の戦友・高橋だった。

 高橋は在学中に試験に見切りをつけ、現在は大手金融機関でエリート街道を歩んでいた。

 ある夜、突然鳴り響いた携帯のスピーカーから漏れる高橋の声は、かつての温かな激励とは似ても似つかない、傲慢で冷酷な響きを帯びていた。


『おい、伊崎。お前、正気か? 予備校講師なんて、結局は資格試験ビジネスじゃないか。俺がどれだけお前を励ましたか分かってるのか。俺は、お前の『司法試験合格者』に期待して投資していたんだ。それを……お前はドブに捨てたんだぞ』


 受話器を握る進の手が、白くなるほど震えた。


「高橋……お前の言う応援は、そんなものだったのか? 」


『勝手なことを言うな! 組織の歯車として社会を動かしている俺に比べれば、お前のやっていることは、ただの『教えるごっこ』だ。そんな狭い世界での成功なんて、何の価値もない!』


「……もういい、高橋。お前には、俺の立っている場所は見えていないんだな。俺は、俺の人生を生きることに決めたんだ」


 進は画面上の赤いアイコンを力強くタップした。

 通話が切れたスマホの画面は、ただ黒く沈黙している。

 部屋を支配するのは、耳の奥で早鐘のように打ち鳴らされる、自らの激しい鼓動だけだった。


【世界でたった一つの聖域】


「……進君?」


 背後から、控えめで、しかしどこか凛とした声がした。

 美智子だった。

 彼女は居間の隅で、進が激昂し、そして静まり返るまでの一部始終を、息を潜めてずっと見守っていたのだ。


 進は深い、深い溜め息と共に肩を落とし、力なく椅子に座り込んだ。

 両手で顔を覆い、掠れた声で漏らす。


「伊勢先生にも……高橋にも……今の僕は、本道を外れたみっともない人間に見えるらしい。僕がやっとの思いで積み上げてきたこの教壇は、彼らにとっては、何の価値もない『ゴミ』なんだよ」


 進の背中は、まるで世界中から見捨てられたかのように小さく丸まっていた。

 すると、美智子が不器用な、しかし確かな足取りで一歩一歩近づいてきた。

 そして、進の凍りついた背中に、そっと温かい両手を置いた。


 美智子はしばらく黙って、進の震えを受け止めていたが、やがていつになく芯のあるはっきりとした口調で語りかけた。


「あの人たちは、何も分かってないわ。今の進君の本当の声を、全然聞いていないもの」


「美智子さん……」


「私はね、毎日毎日、進君がここで朝から夜中まで、目を真っ赤にして講義の準備をしてる後ろ姿を見てる。あんなに一生懸命、明日の生徒たちのために、誰かの人生のために言葉を探している進君が、間違っているはずがないよ!」


 美智子は進の前に回り込むと、その大きな手をぎゅっと握りしめた。

 彼女の薬指には、あの一万円の指輪と、お守りとして箱にしまわれた500円の指輪の記憶が、確かに息づいている。


「伊勢先生は絵描きさんだから、綺麗な山の上のことしか見えないのかもしれない。高橋さんはおっきな会社にいるから、数字のことしか分かんないのかも。でもね、進君の教えてる生徒の人たちは、みんな進君の言葉を待ってるんだよ? 進君に『大丈夫だよ』って段取りを教えてもらって、涙を流して喜んでるんだよ? 世界で一番、立派なお仕事だよ!」


 美智子の拙くも、混じり気のない純粋な全肯定。

 それは今の進にとって、どんな言葉よりも温かかった。


 進の目から、張り詰めていた涙がポロポロと机にこぼれ落ちた。


「……孤独だな、美智子さん。僕は、昔の仲間をみんな失ってしまったかもしれない」


 美智子はそんな進の涙を、自分の服の袖で不器用に向こうから拭ってあげながら、いたずらっぽく、でも最高の春の日差しのような笑顔を咲かせた。


「孤独じゃないよ。私がいるもん。世界中の人が進君をダメだって言っても、私が毎日、朝もお昼も夜も、ずっと応援してあげるって約束したでしょ? 忘れたの?」


「ふっ……あぁ、そうだね。忘れていなかったよ。ありがとう、美智子さん」


 進は美智子の小さな身体を、今度は自分から強く抱き寄せた。

 この圧倒的な孤独こそが、他人の用意したレールを拒絶し、己の足で選んだ「自由」の代償なのだと、進は深く理解した。


 自分は、伊勢先生の描く壮大な風景画の主人公になる必要はない。

 高橋の望むエリートの物語の歯車になる必要もない。

 たとえ予備校の教壇という、世間から見れば限定された、小さな舞台であったとしても。

 そこで悩み、葛藤し、傷つきながらも、自らの血を分けた言葉を受験生に紡ぎ続ける今の自分こそが、『伊崎進』という物語の、唯一無二の主人公なのだ。


 過去の絆を自らの手で葬り去った悲しみは、消えない傷として胸に残るだろう。

 しかし、進の眼差しは、もう前を向いていた。

 自分の人生という舞台で、自分だけの命の歌を、美智子と共に歌いきるために。


「美智子さん、お茶を一杯淹れてくれるかい。もうひと踏ん張り、明日のレジュメを仕上げたいんだ」


「うん! すぐ淹れるね。一番美味しい段取りで淹れてあげる!」


 美智子が声を弾ませて台所へ向かう。

 進は黒く沈黙した携帯電話を机の引き出しの奥へと仕舞い込み、再びチョークの粉で汚れたノートを開いた。

 明日、自分の言葉を命懸けで待っている受講生たちのために、進は再び、力強くペンを握り直した。

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