第2章 2人で生きていく
【奪われた未来、病室の告白】
美智子の手術は、予定された時間を数時間超過して無事に終了した。
手術室の前で張り詰めた面持ちで待ち続けていた進は、医師から「命に別状はありません。執刀は成功しました」と告げられた瞬間、崩れ落ちそうになるほどの安堵を覚えた。
しかし、診察室の重い扉の向こうで医師が明かした事実は、あまりにも残酷なものだった。
「伊崎さん、腫瘍が私たちの想定を遥かに超えて大きくなっていました。周囲の組織との癒着も激しく、奥様の命を守り、再発を完全に防ぐためには……子宮を全摘出するしかありませんでした」
「……全摘出」
進の頭を、鈍器で殴られたような衝撃が襲った。
それは、美智子がもう二度と、自分の子どもを産めない身体になったことを意味していた。
数日後、麻酔の余韻から完全に目覚め、医師から病状を告げられた美智子は、病室の白いベッドの上で、声をあげることもなく静かに涙を流し続けた。
いつも明るかった彼女は完全に元気を失い、まるで魂が抜けてしまったかのように、窓の外の京都の空をただ見つめていた。
退院して鳴滝のアパートに戻ってからも、美智子のその様子は変わらなかった。
いつものように洗濯物を畳もうとしても、不器用な手が途中でピタリと止まってしまう。
彼女は自分の平らになったお腹を愛おしそうに、そして絶望を込めて撫でながら、ぽつりと消え入るような声で呟いた。
「進君……ごめんね。私、進君の子ども、産んであげられなくなっちゃった」
「美智子さん……」
「ごめんね、ごめんね……」
彼女は自分を責め続け、その小さな肩を激しく震わせた。
19歳の春に出会ってから15年、結婚して10年。
ずっと泥を啜りながらも、どこかで「いつかは二人で、温かい家庭を」と夢見ていたのかもしれない。その未来を、病魔が容赦なく奪い去ったのだ。
【進の返答】
美智子の深い焦燥と悲しみを見て、進の胸は張り裂けんばかりに痛んだ。
しかし、進の心の中には、迷いなど微塵もなかった。
進は美智子の前にそっとしゃがみ込み、彼女の震える両手を自分の大きな掌でぎゅっと包み込んだ。
そして、彼女の潤んだ目を真っ正面から見つめ、一言一言を噛み締めるように、力強く、そして限りなく優しいトーンで語りかけた。
「美智子さん、よく聞いて。そんな風に自分を責めるのは、もう終わりにしてくれ」
「でも……私、お母さんになれないんだよ……?」
「子どもなんて、いなくていいんだ」
進の声には、いささかの躊躇もなかった。
「僕がこの世界で一番愛しているのは、美智子さんだけだ。僕にとっての家族は、出会ったあの日から、これからもずっと、君一人だけなんだよ。子どもがいないなら、その分、僕たち二人で、ずっと、ずーっと仲良く一緒に暮らそう。それ以上の幸せなんて、僕には最初から必要ないんだ」
「進君……」
「君が生きて、僕の隣で笑ってくれている。僕にとっては、それこそが、人生の最高で完璧な正解なんだよ」
進の混じり気のない言葉が、美智子の凍りついた心をゆっくりと溶かしていく。
美智子は進の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
進はその小さな背中を、ただ愛おしそうに、何度も何度もさすり続けた。
【二つのリング】
それから数日後。
進は、四条の小さな貴金属店を訪れていた。
ちょうど今年で、二人が結婚して10年という大きな節目を迎えていた。
「美智子さん、これ……受け取ってほしい」
アパートに帰ると、進はポケットから小さな青い箱を取り出し、美智子の前に差し出した。
箱を開けると、そこには、これまでの500円の銀色のリングとは明らかに違う、上品な輝きを放つ、一万円のシルバーの指輪が収められていた。
今の進にとっては、プロの講師として働き、泥を啜るような極貧からようやく抜け出しつつある、自立の証でもあった。
「わあ……! 綺麗……! 進君、これ、お高いんじゃないの……?」
美智子は驚いて目を丸くし、ハキハキとした声を久しぶりに響かせた。
「一万円さ。結婚10周年の、本当の結婚指輪だ。美智子さん、今まで苦労ばかりかけて本当にごめん。これで、ようやく君を本当の僕の妻にできたような気がするよ」
進は美智子の左手を取り、あの500円の、傷だらけになってすっかり変色してしまったリングを優しく外した。
そして、新しく輝く一万円の指輪を、彼女の薬指へとそっと滑り込ませた。サイズは、驚くほどぴったりだった。
進は外した500円のリングを見つめながら、ふっと照れくさそうに笑った。
「よし、これでようやく、その500円の指輪は役目を終えたね。もう古くなって錆びているし、どこかに捨ててしまってもいいよ。あと、将来は、もっと良いのをプレゼントする。今はとりあえずこれで」
しかし、美智子は慌てて進の手からその500円のリングをひったくるように奪い取ると、それを胸元にきゅっと抱きしめた。
そして、ぷっと頬を膨らませて、口調で断固として言い放った。
「ダメ! 絶対に捨てちゃダメだよ、進君!」
「え……? でも、それはただの安物だし、こっちの新しい方が……」
「新しくなくたって、安物だって、関係ないもん!」
美智子はきらきらと輝く新しい指輪が嵌った左手で、古い500円の指輪を愛おしそうに包み込んだ。
「この500円の指輪はね、進君がまだお仕事もなくて、お勉強ばっかりで、世界中で誰も進君を信じてくれなかったときに、進君が私のために一生懸命買ってくれた、世界で一番大切な指輪なんだよ。これがなかったら、私、あの寂しい夜を乗り越えられなかった。だから、絶対に捨てない。これからはお箱に入れて、お守りとして一生大切に取っておくの!」
美智子の拙くも、熱い想いが込められた全肯定。
進は驚き、それから降参したように、心からの笑顔を浮かべた。
「……そっか。そうだね。美智子さんの言う通りだ。僕たちの原点だもんね」
「うん! 私たちの段取りは、この500円から始まったんだもん!」
窓の外、京都の夜空には、あの日見た『二人のアカボシ』が、今も変わらず二人を照らしていた。
一万円の新しい輝きと、500円の傷だらけの思い出。
二つの指輪を胸に、子どもはいないけれど、誰よりも深く結ばれた二人の「人生の講義」は、確かな足取りで、次なる章へと進んでいくのだった。




