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第1章 美智子、倒れる

【最初の教壇、五里霧中の宅建講座】


 ついに、伊崎進がプロの講師として教壇に立つ日がやってきた。


 彼に任されたのは、あの奇跡の「29点」を叩き出した、宅地建物取引主任者(現・宅地建物取引士)試験対策の短期集中講座だった。


 一世一代の勝負服である安物のリクルートスーツの襟を正し、進は数十人の受講生が待つ教室へと一歩を踏み出した。


 教壇から見渡す景色は、これまでの学習塾の小中学生とは全く違っていた。

 そこに座っているのは、人生の崖っぷちに立ち、資格奪取に目を血走らせている大人たち、あるいは会社から厳命されて背水の陣で臨んでいるビジネスパーソンたちだった。

 独特の熱気とプレッシャーが、教室全体に充満している。


 「あ、皆さんはじめまして。今回、宅建講座の権利関係、および業法を担当します、伊崎進です。よろしく、お願いいたします」


 チョークを握り、いよいよ講義が始まった。研修で叩き込まれた通りに、指導案に沿って講義を進めようとする。


 しかし、いざ始まってみると、現実は甘くなかった。


 (おかしい……。研修の時のように、言葉がスムーズに出てこない……)


 受講生たちの鋭い視線が注がれる中、進の生真面目すぎる性格が仇となった。

条文の「なぜ」を熱く語ろうとするあまり、話が深い内容にまで入ってしまい、肝心の「解法」や「数字の暗記テクニック」にまで時間が回らなくなってしまうのだ。


 「先生、今のところ、結局試験にはどう出るんですか?」


 最前線の受講生から飛んできたシビアな質問に、進は言葉に詰まった。


 「あ、それは……その……」


 説明が回りくどくなる。

 講義が進むにつれて、受講生たちが一斉に手元の時計を見ることが多くなった。

 カチカチと教室に響くペンの音が、進の焦燥感を爆発させた。

 毎回講義が終わると、進の背中は冷や汗でぐっしょりと濡れており、受講生たちのアンケート結果も芳しいものではなかった。


 「解けない。僕の頭の中にある内容が、受講生にうまく伝わらない。これでは、あの学習塾で塾長たちが言った通り、僕はただの『お荷物』になってしまう……」


 京都の自宅に帰るなり、進はカバンを床に置き、ソファに深く顔を埋めて激しく落ち込んだ。


【縮まる歩幅、美智子の特等席】


 「進君、お帰りなさい! どうしたの、そんなに頭を抱えちゃって。お腹でも痛いの?」


 台所から、美智子が駆け寄ってきた。

 進の尋常ではない落ち込みように、彼女はそっとその隣に座り、進の硬くなった背中を不器用な手つきでさすった。


 「美智子さん……。上手くいかないんだ。自分の頭の中では分かっている段取りが、教壇に立つと、どうしても言葉になって出てこない。受講生に伝わらない」


 自嘲気味に吐き捨てる進に、美智子は少しだけ怒ったように、ぷっと頬を膨らませた。


 「もう! 進君。最初の最初から、完璧にできる人なんていないよ。私なんて、何年たってもお魚焦がしちゃうんだから!」


 「それは、そうだけど……」


 「進君。難しいことを難しいまま話すから、生徒の人たちもびっくりしちゃうんじゃない? 私に教えるみたいに、お話ししてみてよ。私、世界一頭が悪い生徒になってあげるから!」


 美智子はそう言うと、胸を張って進の正面に座り直した。


 「ほら、お茶を飲みながら、今日のところを私に教えて! 進君の最初の生徒は私なんだからね!」


 美智子の突拍子もない、けれど純粋な提案に、進はふっと毒気を抜かれた。


 進は湯呑みを置き、テキストを開いた。


 「じゃあ、美智子さん。クーリング・オフって聞いたことある? 事務所以外の場所、例えば喫茶店とかで、強引に不動産を買わされちゃったときね……」


 「うん、喫茶店で! 怖いねぇ」


 「そういうときはね、頭を冷やす期間として、8日間はお断りできる法律があるんだ。でもね、売主が宅建業者で、買主が僕たちみたいな一般の人じゃないと、この方法は使えないんだよ」


 「へぇー! 業者さんと一般の人! それなら私にもよく分かる! 進君、その話し方、すごく面白いよ!」


 美智子は手をパタパタと泳がせながら、大喜びで頷いた。


 その瞬間、進の脳内の霧がパッと晴れた。


(そうか……。僕は難しい言葉を使いすぎていたんだ。美智子さんに説明するように、法律を噛み砕いて、誰にでも分かる言葉で伝えればいいんだ!)


 この夜のことをきっかけに、進の講義は劇的に変わり始めた。

 難しい内容はバッサリと切り捨て、受講生の目線に立った徹底的な「噛み砕き」と「具体例」を取り入れた。


 「伊崎先生の講義は、法律が物語みたいに頭に入ってくる」


 少しずつ、教室の受講生たちの目の色が変わっていくのを、進は肌で感じていた。

 ようやく、講師としての確かな手応えを掴みかけていた。


【突然の暗転、京都の夜】


 しかし、二人の人生という名の講義は、またしても予期せぬ試練を用意していた。


 初夏の風が吹き抜ける、ある日の夜。


 進が予備校の夜間講座を終え、高揚感を胸にアパートの扉を開けたとき、いつもなら「お帰りなさい!」とハキハキとした声で出迎えてくれるはずの美智子の姿がなかった。


 部屋の中は真っ暗で、台所の電気だけが寂しく灯っている。


 「美智子さん……? 起きてる?」


 不審に思った進が奥の寝室の電気をつけると、そこには、布団の中で丸くなり、激しく身体を震わせている美智子の姿があった。

 彼女は顔を青ざめさせ、お腹を抱えるようにして苦しそうな息を漏らしていた。


 「進君……おかえり……。ごめんね、ご飯、作れなくて……」


 「美智子さん! どうしたんだ、その汗……! どこが痛むの?」


 進は慌ててベッドの横に駆け寄り、美智子の額に手を当てた。

 額は冷や汗でびっしょりと濡れており、彼女の小さな身体は限界を迎えているように見えた。


 「お腹が、ずーっと重くて……痛くて……。動けなくなっちゃったの……」


 美智子の薬指の500円のリングを嵌めた手が、苦しさのあまり布団の端をきゅっと握りしめていた。


 かつて自分が過労で倒れたとき、顔を真っ白にして駆けつけてくれた美智子の姿が脳裏をよぎる。

 今度は、自分が彼女を救う番だった。


 進は一瞬の迷いもなく、生存本能のように携帯電話を掴み、救急車を要請した。


 「もしもし、救急ですか! 妻が、妻が激しい腹痛で動けなくなっています。場所は右京区の……」


 数十分後、静まり返った京都の住宅街にサイレンが響き渡り、美智子は救急車で近くの大病院へと緊急搬送された。

 進は彼女の手をしっかりと握りしめたまま、祈るような気持ちで同乗した。


 病院の白い待合室で、進は長い爪が手のひらにくい込むほど強く拳を握りしめ、診察室の扉を見つめ続けた。


 数時間の検査の後、出てきた医師が進を静かに呼び止めた。


 「伊崎さんですね。奥様の病名が分かりました。……『子宮筋腫しきゅうきんしゅ』です」


 「しきゅう……きんしゅ」


 聞き慣れない病名に、進の思考が一瞬停止する。医師は淡々と、しかし丁寧に説明を続けた。


 「子宮の壁に良性の腫瘍ができる病気です。命に別状はありませんが、腫瘍がかなり大きくなっており、それが周囲の臓器を圧迫して激しい痛みと貧血を引き起こしています。これ以上の悪化を防ぎ、根本的な治療をするためには、このまま入院していただき、近日中に手術を行う必要があります」


 「手術、ですか……」


 進は眩暈めまいを覚えるような感覚の中で、医師の言葉を必死にノートに書き留めた。

命に別状はないという言葉に一安心したものの、あの不器用で、環境の変化に人一倍敏感な美智子が、病院という見知らぬ場所で入院生活と手術に耐えられるのだろうか。その不安が、進の胸を締め付けた。


 病室に入ると、点滴を打たれた美智子が、白いベッドの中で小さな顔をさらに小さくして横たわっていた。

 進が近づくと、彼女は申し訳なさそうに、潤んだ目で進を見上げた。


 「進君……私、入院になっちゃった。お家のお洗濯も、明日のお弁当の段取りも、私、何にもできなくなっちゃって……ごめんね」


 その健気な言葉に、進は胸が詰まるのを堪え、美智子の手を両手でそっと包み込んだ。


 「何を言ってるんだ、美智子さん。謝らなきゃいけないのは僕の方だよ。僕が自分の仕事に夢中になりすぎて、君の体調の変化に気づいてあげられなかった。家事のことなんて、何一つ心配しなくていい。僕がぜんぶ、完璧に段取りを組んでやっておくから」


 進は美智子の目を見つめ、優しく、けれど断固としたトーンで微笑みかけた。


 「君はただ、ここでゆっくり休んで、体を治すことだけを考えて。僕がずっと、君の隣にいるから」


 美智子は進の言葉に、安心したように小さく「うん……」と頷き、繋いだ手に微かに力を込めた。

 窓の外、京都の夜が静かに更けていく。講師としての階段を上り始めた進の前に、今度は最愛の妻の病という、二人で乗り越えなければならない新たな試練の幕が上がろうとしていた。

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