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第5章 行く職場、去る職場

【去り行く場所の、冷たい背中】


 大手公務員試験予備校での正式な採用と、一ヶ月の過酷な研修の修了を経て、進の心は完全に決まっていた。

 プロの講師として教壇に立ち、受講生たちの人生の段取りを支えるためには、これまでのアルバイト生活に区切りをつけなければならない。

 進は、早朝のパン屋と、夜の学習塾のそれぞれに、今月限りで仕事を辞める旨を伝えた。


 翌早朝、午前5時。

 進はいつも通りパン屋の厨房に立ち、黙々と小麦粉を捏ね、焼き上がったパンを棚に並べた。

 しかし、店主や周囲のパートたちに「今月で辞めさせていただきます」と告げたときの反応は、驚くほどそっけないものだった。

 元より、体調を崩して倒れるような男に、余計な情をかける職場ではなかったのだ。


 そして最終日の勤務が終わり、進は誰もいない更衣室で、ロッカーから自分の荷物をまとめていた。

 使い古した作業着をカバンに詰め、扉を閉めようとしたその時、薄い壁の向こうの休憩室から、聞き覚えのある他のパートや社員の話し声が漏れ聞こえてきた。


 「あーあ、やっと伊崎さん辞めてくれたね。正直、あれはお荷物だったでしょ」

 「本当、真面目ぶってるけどさ、この前なんかぶっ倒れて救急車まで呼んでさ。こっちのシフトの段取りがどれだけ狂ったか分かってないのよ。辞めてくれてせいせいしたわ」


 クスクスという、悪意の混じった冷笑。

 それを聞いた瞬間、進の身体の芯が冷たく、そして激しく燃え上がるように怒りで震えた。

 かつての自分なら、ただ俯いて、聞こえないふりをして立ち去っていただいたろう。

 しかし、今の進には、自分の背中を命がけで信じてくれた美智子がおり、泥を啜りながら勝ち取った新しい仕事があった。


 進はカバンを握りしめると、足音を荒げることなく、静かに休憩室の扉を開けた。


 「ひっ……!」


 突然現れた進の姿に、喋っていた社員とパートの女性は、文字通り顔を引きつらせて固まった。

 進は、その生真面目な、しかし冷徹なまでの光を宿した瞳で、二人の目を真っ正面から見据えた。

 そして、低く、ハキハキとした通る声で言い放った。


 「陰口ではなく、堂々と本人の前で言って頂けますか。……まあ、あなた方とは、もう二度とお会いすることはありませんが」


 二人は唇を震わせたまま、一言も返すことができなかった。

 進はそれ以上、言葉を荒げることもなく、静かに一礼してその場を去った。

 錆びついた過去の檻から、自分の足で一歩を踏み出すように、進はパン屋の勝手口を力強く押し開けて外へ出た。朝の光が、妙に眩しかった。


【塾長たちの予言と、晴れやかな心】


 その日の夜、進はもう一つの職場である学習塾へと向かった。

 授業をすべて終えた後、職員室の奥で、塾長と教務主任に進退の挨拶をする。

 彼らは進の履歴書を前に、何度もため息をつきながら、諭すような、あるいは突き放すような口調で何度も同じ言葉を繰り返した。


 「伊崎先生、大手資格試験予備校の講師なんてね、今の何倍も苦労するよ。甘い世界じゃないんだ」

 「そうですよ。ここでは小中学生相手に決まったテキストを教えていればよかったかもしれないが、あっちの受講生は人生がかかっている大人だ。クレームだって今の比じゃない。楽な仕事じゃない。本当にやっていけるんですか?」


 何度も何度も投げかけられる、否定的な「予言」。

 彼らからすれば、実績のない人間が、いきなり全国区の大手予備校の教壇に立つなど、無謀な背伸びにしか見えないのだろう。


 「今の何倍も苦労する」

 「楽な仕事じゃない」


 その言葉を聞きながら、進の胸の奥には、不思議なほど晴れやかな風が吹き抜けていた。


(何を今更言っているんだ……。僕が今まで歩んできた道が、いつ『楽な仕事』だったときがあったか? パンの耳をかじり、過労で死にかけながら勉強を続けてきたんだ。今更どんな苦労が来ようと、あの暗闇に比べれば、何一つ恐れるものなんてない)


 進は、塾長たちの言葉に怯むことなく、むしろ清々しいほどの笑みを浮かべて、深く頭を下げた。


 「お言葉、深く肝に銘じます。今まで本当にお世話になりました」


 塾のビルを出ると、夜の京都の街はすっかり春の匂いに満ちていた。

 丸太町通を歩く進の足取りは、かつてないほど軽かった。

 去り行く場所の人々は、一様に自分を疑い、否定し、呪詛のような言葉を吐きかける。

 けれど、そのすべての雑音が、今の進の耳には、新しい世界へのファンファーレのようにさえ聞こえていた。


【世界でたった一人の全肯定】


「ただいま、美智子さん」


 京都市右京区のアパートの扉を開けると、そこには、いつものように自分の帰りを待ってくれていた美智子の姿があった。


 「あ、進君! お帰りなさい! どうだった? パン屋さんとお塾のお仕事、ちゃんと最後のご挨拶できた?」


 美智子は声を弾ませながら、玄関先までパタパタと駆け寄ってきた。

 進はコートを脱ぎながら、ふっと苦笑いを浮かべた。


 「うん。パン屋ではね、陰口を叩かれていたから、『本人の前で言ってくれ』って言い返してやったよ。塾では、塾長たちに『今の何倍も苦労する』『お前には無理だ』って、散々言われてしまった」


 居間の座布団に腰を下ろした進の言葉に、美智子は一瞬だけ怒ったように眉をひそめた。

 それから、進の隣に勢いよく座ると、彼の大きな両手を自分の小さな手でぎゅっと包み込んだ。


 「何それ! その人たち、全然分かってない! 進君がどれだけ凄い先生か、何も分かってないよ!」


 美智子のハキハキとしたイントネーションが、部屋の中に力強く響く。

 彼女は薬指の500円のリングを進に見せるように、拳をきゅっと握りしめた。


 「あのね、進君。その人たちが何て言おうと、私はぜーーんぶ、進君の言うことが正しいって思ってる。進君が新しい学校に行くのはね、絶対に大正解! 苦労したって、進君ならぜんぶ段取りを組んで、かっこよく教えられるもん! 」


「ありがとう、美智子さん」


 進は思わず声をあげて笑ってしまった。

 胸の奥にわずかに残っていた、去り行く場所での澱のような感情が、美智子のその真っ直ぐな言葉によって、一瞬にして綺麗に洗い流されていくのが分かった。


 「そうだよ! 焦げたお魚しか作れない私を、いっつも助けてくれる進君なんだから。世間の人たちがダメって言ったって、私が絶対に『進君は世界一!』って言い続けてあげる!私、ファンクラブの会長になっちゃう」


 美智子の屈託のない笑顔と、混じり気のない信頼。

 世界中の誰もが伊崎進を疑い、無理だと嘲笑おうとも、この小さな部屋で自分を待ってくれているこの女性だけが、自分のすべてを信じ、肯定してくれる。

 それだけで、男が戦う理由としては、もう十分すぎるほど十分だった。


 進は、隣で胸を張る美智子の小さな肩を、そっと愛おしそうに抱き寄せた。


 「明日から、いよいよ新しい教壇だ。美智子さん、僕の授業を、楽しみにしていて」


 「うん! 私、一番前の席で聴いてるくらいの気持ちで、お家でお祈りしてるね!」


 窓の外、京都の夜空には、あの葛藤の夜に見た『二人のアカボシ』が、今度は二人の進むべき道を祝福するように、一際まばゆく輝いていた。

 不器用な二人の歩む新しく整えられた道は、もうどこへも続いていない暗闇ではない。

 明日からの教壇という名の黎明へ向かって、二人の足跡は、確かな光の中へと続いていた。

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