第4章 やっと見えた夜明け
【採用の呼び声と、狐につままれた朝】
模擬講義の翌日、進の仕事は珍しく夕方からだった。
いつもなら早朝から起き出し、分刻みの段取りに追われる進にとって、それは久しぶりに訪れた空白の時間のはずだった。
しかし、昨夜の眠りはあまりにも浅く、泥のような後悔だけが頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
居間の座布団の上で、進は頭を抱えて低く呻いた。
「……なんてことをしてしまったんだ。きちんと案内を読んで、あと数日でもいいから業法と法令のテコ入れをしていけば、もっと自信を持って解けたはずなのに。せっかく掴んだチャンスだったのに。自分の不手際でそれを潰してしまうなんて……」
台所で、朝食の片付けをしていた美智子が、お皿を重ねるカチャカチャという音を響かせながら、話しかけてきた。
「進君、またおんなじことばっかりブツブツ言ってる! ほら、お茶新しく淹れたから、一回シャキッとして!」
「……ごめん、美智子さん。分かってはいるんだけど、どうしても自分に腹が立って」
「ダメだよ、終わったことをずーっと思い悩んでも仕方ないよ。私は進君の背中が凄いって言ったんだから、進君も自分の背中を信じなきゃ!」
美智子が淹れてくれた緑茶の湯呑みを受け取ろうとした、まさにその時だった。
畳の上に置いていた進の携帯電話が、けたたましく震え出した。
画面に表示された市外局番を見て、進の背筋が凍りつく。
あの予備校からだった。
進は慌てて姿勢を正し、喉を鳴らして通話ボタンを押した。
「……もしもし、伊崎です」
『あ、伊崎さんですか。お世話になっております。昨日模擬講義を担当いたしました、採用課のものです。昨日はお忙しい中、弊校までお越しいただき誠にありがとうございました』
「あ、いいえ! こちらこそ、貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございました」
進は受話器を握る手にぐっと力を込めた。
いよいよ、あの筆記試験の件で正式にお断りの連絡が来たのだと、落選の衝撃に備えて身を硬くする。
しかし、電話の向こうの担当者が告げたのは、進の予想を完全に覆す言葉だった。
『早速ですが、昨日の筆記試験、および模擬講義の結果を社内で総合的に判断いたしました。……その結果、ぜひ伊崎さんに我が校の教壇に立っていただきたく、講師として正式に採用させていただくことになりました』
「え……っ?」
進は間の抜けた声を出し、そのまま完全にフリーズした。
「あ、あの……採用、ですか? 僕が、ですか?」
『はい、採用です。来週から一ヶ月間、少々過酷な講師研修が始まりますが、スケジュール等はよろしいでしょうか?』
「は、はい! もちろん異存はありません! よろしく、お願いいたします!」
電話を切った後も、進は携帯握りしめたまま、狐につままれたような心地で呆然と座り込んでいた。
横でその様子をじっと見守っていた美智子が、たまらず身を乗り出して進の顔を覗き込んできた。
「進君……? どうしたの? もしかして、意地悪言われちゃった?」
「ち、違うんだ、美智子さん……。採用、された」
「さいよう……って、合格ってこと!?」
「ああ。来週から研修に来てくれって」
「やったぁぁぁ!」
美智子は弾かれたように立ち上がると、嬉しさのあまり手をバタバタと激しく振り回し、その場でピョンピョンと跳ね回った。
「ほら見なさい! 私が言った通りじゃん! 進君は凄いんだよ! あんな意地悪なテストなんて、関係なかったんだよ!」
「いや……でも、本当にいいんだろうか。あのボロボロの筆記試験で……」
進はまだ信じられない思いだったが、美智子の底抜けの笑顔を見ているうちに、じわじわと胸の奥が熱くなってきた。
そこから始まった一ヶ月の研修は、模擬講義の容赦ないダメ出しや指導案の作成など、噂通り極めて過酷なものだった。
早朝から深夜までのスケジュールは肉体を極限まで追い詰めたが、進にとっては一秒たりとも苦痛ではなかった。
ここを戦い抜きさえすれば、自分たちの前に全く新しいステージが開けるのだという確信が、彼の足を一歩も引かせなかった。
研修は終わった。
長かったが、充実した時間だった。
これで、宅建試験の講師としてのスタート。
進の胸は高鳴っていた。




