第3章 悲しい採用試験
【盲点と、焦燥の試験場】
一世一代の模擬講義。
進は新調したばかりの、お世辞にも高級とは言えない安物のリクルートスーツに身を包み、緊張で喉を鳴らしながら大手公務員試験予備校の重い扉を叩いた。
胸に秘めていたのは、長年の極貧生活と泥を啜るような独学の中で磨き上げてきた、「法を伝える」ことへの圧倒的な情熱。
しかし、その高揚感は、受付の女性から無造作に手渡された一枚の用紙によって、瞬時に凍りつくこととなった。
「模擬講義の前に、基礎知識の確認として、筆記試験を30分間行います。こちらの教室へどうぞ」
「……筆記、試験」
進は絶句した。
案内の端に小さく記されていたその一文を、完全に読み落としていたのだ。
用意された机に座り、配られた問題用紙をめくる。試験科目は、宅建業法、権利関係、そして法令上の制限。
(まずい……! 宅建の試験に合格してから、もう二年の月日が流れている……!)
民法の論理(権利関係)は、日々の司法試験の過酷な学習によって完全に血肉化していた。
しかし、暗記要素の極めて強い「宅建業法」の細かな営業保証金の数字や、「建築基準法」「都市計画法」の複雑な規制の知識は、ここ数年触れていなかったがために、記憶の彼方へと霧散してしまっていた。
焦燥の中で、進は震えるペンを握った。
「くそっ……この設問、どっちだ。35条書面か、37条書面か……数字が思い出せない……」
設問をいくら読み進めても、確かな手応えが何一つ返ってこない。
かつてあれほど完璧に頭に叩き込んだはずの知識が、指の間からサラサラと零れ落ちる砂のように、輪郭を失っていく。
焦れば焦るほど冷や汗が掌を濡らし、解答欄を埋める鉛筆の音が、まるで己の夢への死刑宣告を告げる秒読みのように、静かな教室に虚しく響いた。
「そこまでです。筆記用具を置いてください」
あっという間に制限時間は終了した。
無残にも半分近くが適当なマークのまま回収されていく解答用紙を横目で眺めながら、進は胃を雑巾のように絞られるような、言いようのない無念さと激しい後悔に苛まれていた。
(見落としていた……。準備不足だ。これでは、模擬講義をする前に、教壇に立つ資格すらないと見なされても文句は言えない……!)
【風に立つ孤独】
しかし、どれほど絶望しようとも、面接官たちは待ってくれない。
筆記試験の余韻を引きずったまま、進は別の教室へと案内された。
そこには、予備校の幹部職員や、第一線で活躍する採用担当講師が3人ほど、鋭い目つきで座っていた。
「では、伊崎さん。模擬講義を始めてください」
進はごくりと唾を飲み込み、黒板の前に立った。
筆記試験の失敗が頭をよぎり、足がすくみそうになる。
しかし、チョークを手に取った瞬間、進の目つきが変わった。
「——皆さん、民法の制限行為能力者制度を学ぶ際、なぜ『未成年者』や『成年被後見人』を法律がここまで保護するのか、その理由を考えたことがありますか?」
進は持てる力のすべてを、その声に注ぎ込んだ。
ただ条文を丸暗記させるのではない。
なぜこの法律が必要なのか、その「なぜ」を、かつて自分が法律に救われたときの熱量のままに、黒板を激しく叩きながら熱く語り通した。
面接官たちは、無表情のまま進の講義をじっと見つめ、手元の書類に何かを書き込んでいく。
「……以上で、私の模擬講義を終わります」
15分の持ち時間は瞬く間に過ぎ去った。
「お疲れさまでした。本日はありがとうございました。結果は後日郵送しますので、気を付けてお帰りください」
担当者の事務的な声に送り出され、進は予備校の門を出た。
梅田の喧騒を抜け、京都へと向かう阪急電車の座席に揺られる進の心は、冬のどんよりとした曇り空そのものだった。
模擬講義の手応えがどうあれ、あの筆記試験の惨状では、足切りにされてもおかしくない。
進は座席に深く身を沈め、カバンから取り出したiPadの画面を力なくスワイプした。
音楽再生アプリを開き、選んだのは、かつてから愛聴していた椎名恵のアルバム『ダブル・コンチェルト』。
その中の一曲、作家の森瑤子が美しい詞を編んだ『風物語』が、イヤホンを通じて進の鼓膜に流れ出した。
(明日は 明日の風が吹く)
透明感のある、しかしどこか残酷なまでに切ない歌声が、今の進の圧倒的な孤独を鋭く突き刺す。
もしこの結果を誰かに話せば、きっと誰もが「次があるよ」「模擬講義が良かったなら大丈夫だよ」と、気休めの優しい言葉で慰めるだろう。
けれど、今この瞬間に感じている「案内を厳密に読まなかった、準備を怠った自分」への激しい情けなさ、そしてようやく掴みかけた夢が、またしても指の隙間から滑り落ちていく強烈な恐怖。
その暗闇の中で、ただ一人震えながら立ち尽くしているのは、他の誰でもない、進一人だけだった。
ガタゴトと揺れる阪急電車の窓の外、夕闇に包まれて流れていく淀川の景色が、進の視界の中でじわリと滲んで見えた。
【茶の静寂と、美智子の背中】
「ただいま……」
京都のアパートの扉を開けると、部屋の奥から美智子がいつものように迎えてくれた。
「あ、進君! お帰りなさい! どうだった? お面接、上手くいった?」
美智子は嬉しそうに、手を少しバタバタと泳がせながら玄関まで駆け寄ってきた。
しかし、進の異様なほどに暗い表情と、今にも崩れ落ちそうなスーツ姿を見て、ハッと動きを止めた。
進は靴を脱ぎ、力なく居間の座布団の上に腰を下ろした。
「……駄目だったかもしれない」
ぽつりと零されたその言葉に、美智子はそれ以上何も聞かず、小さく「あ……」とだけ言うと、台所へと向かった。
そして、いつになく慎重な、不器用な手つきで急須からお茶を淹れ、進の隣に静かに座った。
「進君、これ……熱いから、気を付けてね」
「ありがとう、美智子さん……」
温かい湯呑みを進の手につつましそうに握らせると、美智子は進の横顔をじっと見つめた。
進は湯呑みから立ち上る湯気を見つめたまま、自嘲気味に、吐き捨てるように言った。
「僕のミスなんだ。案内の端に書いてあった『筆記試験』の文字を、完全に見落としてた。宅建の細かい数字なんて、ここ二年触れてなかったから、全然書けなかったんだよ。模擬講義以前の問題だ。案内すらまともに読めない人間に、教壇に立つ資格なんて、最初から無かったんだよ。……僕は、また独りよがりで、勝手に舞い上がってただけだったんだ」
進の言葉には、自分自身への激しい怒りと絶望が満ちていた。
世間から見れば、ただの準備不足の受験生。
その事実が、進の生真面目なプライドをズタズタに引き裂いていた。
しかし、美智子はそんな進の言葉を否定することも、安易に慰めることもしなかった。
彼女は伏せていた大きな目をゆっくりと上げ、進の目を真っ正面から見つめた。
「……私ね、難しい法律の試験のことは、よく分からないよ。数字を忘れちゃうのが、どれくらい悪いことなのかも、分かんない」
美智子の言葉には、確かな、静かな強さが混じり始める。
「でもね、進君。進君が今まで、毎日まいにち、朝から夜中まであんなに一生懸命お勉強してきたことは、絶対に無駄にならないと思う。私、ずーっと隣で、あなたのその背中を見てきたから」
「美智子さん……」
「ご飯が焦げちゃっても、私がパニックになっても、進君はいっつも『段取りを考えれば大丈夫だよ』って言って、教科書を読んでお勉強してた。あんなに一生懸命な人が、資格がないなんて、私、絶対に思わない。その学校の人が進君をダメだって言うなら、その人たちが間違ってるよ」
美智子の、拙くも混じり気のない、純粋そのものの肯定。
その言葉が、かえって進の胸を締め付け、痛いほどの熱さとなって突き刺さった。
(美智子さんは、こんな僕を信じてくれているのに……僕は、なんて情けないミスを……)
進は湯呑みを強く握りしめ、溢れそうになる涙を堪えるように、ぐっと奥歯を噛み締めた。
美智子はそんな進の肩に、そっと自分の小さな手を添えた。
薬指の500円のリングが、お茶の湯気に揺れながら、二人の静かな沈黙を優しく照らし続けていた。




