第2章 扉が開いた
【停滞する日々、夜空の旋律】
択一試験合格という大きな一歩を踏み出し、次々と関連する法的な資格やライセンスをその掌に収めていった進。
しかし、そこから彼の心境には、ある決定的な変化が生まれ始めていた。
自分が問題を解けるようになること以上に、法律という一見冷徹な世界の奥にある面白さや血の通った論理を「誰かに伝える」ことに、どうしても抗えない魅力を感じ始めていたのだ。
(僕は、法律のプロフェッショナルになりたい。でもそれ以上に、僕のように泥を啜って生きてきた人たちに、武器としての法律を教える講師になりたいんだ)
進は自作の履歴書を刷り上げ、ありとあらゆる資格予備校や公務員試験予備校へ送り続けた。
しかし、返ってくるのは冷ややかな不採用通知ばかりだった。
実績のない学習塾非常勤講師の男を、いきなり採用してくれるほど甘い世界ではない。
結局、美智子を養うために早朝から夜遅くまでアルバイトに追われる日々は変わらなかった。
ある冬の深夜。
転居先の新しい部屋で、進は一人、机に向かっていた。
資格試験予備校講師への夢が、暗い夕闇に溶ける幻影のように遠のいていく感覚に襲われ、進は思わずペンを置いた。
静まり返った部屋の片隅、小さなラジカセの深夜放送から、ある曲が静かに流れ出してきた。
キンモクセイの『二人のアカボシ』だった。
どこか切なくも温かいメロディと、夜空を駆けるような旋律が、疲弊した進の心に深く染み渡っていく。
進は窓を開け、冷たい京都の夜空を見上げた。
(いっそ、美智子さんを連れて、この出口の見えない京都から、誰も僕たちを知らない遠い場所へ逃げ出してしまおうか……)
ふと湧き上がったそんな弱気に、進は激しい自己嫌悪を覚えた。
ふと横を見ると、小さな布団の中で、美智子がすやすやと穏やかな寝顔を覗かせている。
その左手の薬指には、あの500円のリングが今も大切に嵌められていた。
進は窓を閉め、自分の両拳を白くなるほど強く握りしめた。
「……違う。逃げるんじゃない」
進はベッドの横にそっとしゃがみ込み、美智子の寝顔を見つめながら、消え入るような声で、けれど断固としたトーンで呟いた。
「この新しくなった道を、どこへも続いていない暗闇のままにはしない。僕たちが、胸を張って未来へ歩くための道に、僕自身の手で変えてみせるんだ」
その誓いに呼応するように、ラジオからは最後のサビの旋律が、夜の底へ優しく溶けていった。
【沈黙の果てに届いた封書】
そんな葛藤と停滞の日々に、ある日、ついに終止符が打たれる。
夕方、アルバイトから帰ってきた進がアパートの郵便受けを覗くと、一通の白い封書が差し込まれていた。
これまでの、不採用通知が入った薄い定形外の封筒とは明らかに違う、独特の厚みと重み。差出人の欄には、全国に展開する大手公務員試験予備校の名前が、格調高い文字で印刷されていた。
進は部屋に入ると、コートも脱がずに、震える指で丁寧に封を切った。
中から現れた上質な紙に目を落とした瞬間、進の身体がびくりと震えた。
そこには、力強いフォントでこう書かれていた。
『講師職の面接、および模擬講義の案内』
誰も見向きもしなかった、不器用な経歴。
しかし、その履歴書の行間から滲み出る、泥を啜りながら這い上がってきた男の「異常なまでの執念」と「生真面目さ」を、見抜いた者が確かにそこにいたのだ。
「進君……? どうしたの、そんなところで固まって」
台所で、洗濯物をどう畳んでいいか分からず、段取りに戸惑って手をバタバタと泳がせていた美智子が、不思議そうに進の顔を覗き込んだ。
進は無言のまま、その白い紙を破れんばかりに強く握りしめ、美智子の元へと歩み寄ると、彼女の小さな身体を勢いよく、強く、強く抱き寄せた。
「きゃっ……! 進君、お洋服が冷たいよぉ」
不意の抱擁に驚きながらも、美智子は進の腕の中でハキハキとした声をあげた。
しかし、進の肩が微かに震えていることに気づくと、彼女は動きを止め、そっと進の背中に手を回した。
「美智子さん……呼んでくれた。ついに、僕を呼んでくれたよ」
「え……?」
「予備校の面接と、模擬講義の案内だ。僕の経歴を笑わずに、僕がこれまで培ってきた法律の知識を、僕の声を、聞きたいと言ってくれる場所が、この世界に本当にあったんだ……!」
進の目から、一筋の熱い涙が美智子の肩口へと零れ落ちた。
19歳の春、鶴橋の駅前で彼女を庇ってから10年。
ずっと社会の片隅で、誰にも認められずに泥を啜り続けてきた二人の時間が、今、報われようとしていた。
美智子は進の胸に顔を埋めたまま、薬指の500円のリングをきゅっと握りしめ、心からの笑顔を咲かせた。
「すごい……! すごいね、進君! 私、知ってたよ。進君のお勉強は、絶対に誰かの役に立つって。だって、私の人生の段取りを、いっつも教えてくれたのは進君だもん。絶対に、世界一の先生になれるよ!」
「ありがとう、美智子さん。僕、全力でやってくる。僕たちの人生の講義を、ここから始めるんだ」
窓の外では、京都の冷たい、長い冬がようやく終わりを告げようと、柔らかな風が吹き始めていた。
伊崎進という一人の男の人生という名の「講義」が、美智子という唯一の聴講生を前に、ついに始まりのチャイムを鳴らそうとしていた。




