第1章 転機到来
【立ち退きという名の追い風】
それは、極貧の生活の中で二人が手を取り合い、少しずつ不器用な生活の段取りを整え始めていたある日のことだった。
2人の住む古いアパートに、役所の都市計画課の担当者が突然の訪問に訪れた。
アパートが面する道路の拡張工事に伴い、建物を解体するため、数ヶ月以内に立ち退いてほしいという公的な要請だった。
数日後、書面で提示された補償金の額を見て、進は狭い部屋の真ん中で完全に凝固した。
「……150万円」
通帳に刻まれる予定のその数字を呟いた進の声は、微かに震えていた。
早朝のパン屋、昼の弁当販売、夜の学習塾と、文字通り命を削って三つの仕事を掛け持ちし、過労で倒れて医師から厳重注意を受けたばかりの進にとって、それは天から降ってきた巨万の富、あるいは奇跡そのものだった。
「150万……。美智子さん、これがあれば、君にこれ以上の苦労をかけずに済むかもしれない。僕の体も、少し仕事を減らして勉強に集中できる」
通帳の文字を指でなぞる進の横で、美智子は膝の上で十円玉を数えるのをやめ、不安そうに首を傾げた。
左手の薬指には、あの500円のリングが鈍く光っている。
「引っ越すの……? 進君、この部屋、狭くてお台所も小さかったけど、私は好きだったよ。あなたがいっつも、ここで六法全書を開いて一生懸命お勉強してたから。新しいところに行くの、なんだか少し怖いな……」
東京での転居と挫折のトラウマがよぎったのか、美智子は自信なさげに俯いた。
進はそんな美智子の隣に座り、その小さな手を優しく包み込んだ。
少し不自然さを残しながらも語りかけた。
「怖がらなくていいよ、美智子さん。これは僕たちにとって、神様がくれた大きな追い風、チャンスなんだ。今度は僕がちゃんと段取りを組むから。もっと暮らしやすくて、お台所の火の加減もやりやすい、新しい場所で一緒にやり直そう」
進の真っ直ぐな言葉に、美智子は「うん……進君がそう言うなら、私、信じる」と、ようやく笑顔を見せて頷いた。
2人はさっそく新たな転居先を探し、運良く近くの小綺麗な物件へと、20万円ほどの費用で引っ越しを終えることができた。
新しい部屋は、美智子が家事をしてもパニックになりにくい、見通しの良い間取りだった。
手元に残ったのは、130万円という純然たる「軍資金」である。
進はその生真面目な性格通り、まず全体の半分を、ずっと心の重荷になっていた黎明大学時代の奨学金の返済に一括で充てた。
肩の荷がふっと軽くなるのを感じながら、残りの半分を、かつてはパンの耳を囓りながらパンフレットを見上げるだけだった、司法試験予備校の正規の受講料へと注ぎ込んだ。
これまでは独学で、中古の参考書を泥を啜るように読み込んできた進だったが、予備校の正規の講義と、法改正に対応した最新の教材は、彼の脳内に蓄積されていた知識の断片に、瞬く間に熱い血を通わせていった。
論理の骨組みが、驚くほどのスピードで強固になっていく。
そして受講後ほどなくして行われた試験。
進は、超難関とされる司法試験の一次関門、択一試験に見事合格を果たした。
「受かったよ、美智子さん! 択一試験を通ったんだ!」
新しい部屋の扉を開けるなり、進は合格通知のハガキを高く掲げた。
その声を聞いた瞬間、美智子は台所から弾かれたように立ち上がり、嬉しさのあまり手をパタパタと激しく動かしながら、進の元へと駆け寄った。
「すごい……! すごいね、進君! 伊崎君がずっと、夜中まで頭が痛くなるくらい頑張ってたの、私、隣で見てたもん! 本当によかった……! お祝い、何がいい? 私、焦がさないように、一生懸命がんばって何か作るよ!」
目を輝かせて自分のことのように喜ぶ美智子を見て、進は心の底から込み上げる愛おしさを感じながら、優しく首を振った。
「ありがとう。でも、ご馳走は最終合格まで取っておこう。今は、この分厚い扉がようやく一枚開いた、それだけで十分だよ。……そうだ、美智子さん。ささやかなお祝いとして、明日は2人で映画でも観に行かないか?」
「映画!? 行きたい! 」
美智子は薬指の500円のリングを誇らしげに見つめながら、弾んだ声で答えた。
【神隠しの街、再会の二人】
翌日、二人が足を運んだのは、四条河原町の映画館だった。
館内は、日本中の老若男女を熱狂の渦に巻き込んでいた宮崎駿監督の最新作『千と千尋の神隠し』を観るために、超満員の人で埋め尽くされていた。
場内が暗転し、スクリーンに鮮やかな異世界が映し出される。
名前を奪われ、「千」と呼ばれながら、八百万の神々が住まう理不尽な湯屋で、生き抜くために必死に働き続ける少女・千尋。
進は、それを単なるファンタジーのアニメーションとして観ることはどうしてもできなかった。
スクリーンを見つめる進の脳裏に、かつて長野から出てきて、定時制高校で、自分を見失いそうになっていた少年時代の記憶がありありと蘇っていた。
そして美智子もまた、東京という巨大な神隠しの街で名前を失い、不器用さゆえに彷徨い、生き抜いてきた異邦人だった。
映画の終盤、千尋が自分の本当の名前を取り戻し、現実の世界へと帰っていく姿に、進は静かに拳を握りしめていた。
(僕たちは、社会の余剰物なんかじゃない。不器用でも、名前を奪われても、こうして自分の足で立って、自分の人生を取り戻せるんだ)
上映が終了し、館内に明かりが灯った。
隣を見ると、美智子はハンカチで何度も目元を拭いながら、感動で胸をいっぱいにしている様子だった。
劇場を出て、夕暮れの京都の街を二人で歩く。
四条河原町の雑踏の中、バス停へと向かう道すがら、美智子が進の腕にそっと手を添えて、目を輝かせながら言った。
「千尋、すごく頑張ってたね。意地悪されても、お仕事が上手くできなくても、一生懸命で……。最後に自分の名前を取り戻せて、本当によかったぁ」
美智子の横顔を見つめながら、進は深く、深く頷いた。
自分もまた、この150万円の立ち退き料という奇跡を追い風にして、自らの手で「伊崎進」という人生の主権と、二人の未来を完全に奪い返しつつあることを確信していた。
「……そうだね。僕たちも、この街でしっかり生きていこう」
「うん!」
異世界の湯屋から日常へと戻る千尋が、二度と後ろを振り返らなかったように。
択一試験合格という大きな関門を力強く突き抜けた伊崎進は、隣で幸せそうに微笑む美智子の歩幅に合わせながら、最終合格という本当の黎明を目指し、平成の京都の街を、確かな決意と共に力強く歩み出していた。




