第8章 進、倒れる
【三つの仕事と、眠らぬ書庫】
婚姻届を提出し、500円のリングで結ばれた二人の新婚生活は、甘い新婚旅行とは程遠い、壮絶な労働の日々から始まった。
まだ司法試験の受験生である進には、生活費を稼ぎ、なおかつ美智子との暮らしを維持するという重い責任がのしかかっていた。
進は一日の時間を限界まで切り詰め、三つの仕事を掛け持ちすることに決めた。
早朝、まだ星が輝く午前4時。
進は京都の鳴滝の部屋を出て、近くのパン屋の厨房へと向かった。
小麦粉にまみれながら重い生地を捏ね、焼き上がったパンを棚に並べる。
それが終わると息をつく暇もなく、昼前には美智子と合流し、かつて自分が通った黎明大学のキャンパスへ向かう。
食堂でのマルチタスクはダメだった美智子だが、「決まった場所に立ってお弁当を渡す」という販売の仕事なら、進が横で段取りを支えることで、なんとかこなすことができた。
そして夜になれば、進はネクタイを締め、学習塾の教壇に立った。
受験生たちを前に、かつて自分が偏差値32から這い上がったあの執念を叩き込むように、夜遅くまで授業を行った。
進の睡眠時間は、毎日3時間を切っていた。
常に頭の奥が重く、極度の寝不足で視界が白く霞むような日々。
それでもお弁当販売が終わると、進は「美智子さん、先に帰ってていいよ」と彼女だけを鳴滝の家に返し、自分は黎明大学の図書館へと向かった。
(ここで手を緩めたら、何のために美智子さんと一緒になったか分からない。僕が法曹にならなければ、二人の未来はないんだ)
進は出納係の頃のように静まり返った図書館の机に向かい、睡魔を振り払うように六法全書と向き合い続けた。
【狂った限界、鳴滝への救急車】
しかし、人間の肉体には冷酷な限界が存在した。
ある初夏の午後。
図書館の窓から差し込む気怠い陽気の中で、進はかつてないほどの強烈な睡魔に襲われていた。
文字の羅列が完全に歪み、どれだけ目を凝らしても意味が頭に入ってこない。
焦燥感に駆られた進は、カバンから市販の強力な眠気覚まし薬「エスタロンモカ」を取り出し、さらに液体タイプの「オールP」を一気に煽った。
それでも、脳の疲労は薬の刺激を上回っていた。
意識が遠のきそうになるのを防ぐため、進はさらに、カバンに残っていた「リポビタンD」の瓶の蓋を指で弾き、一気に喉へと流し込んだ。
その瞬間、異変が起きた。
高濃度のカフェインと強壮剤が、限界を超えていた進の自律神経を一瞬にして直撃したのだ。
心臓がバクバクと狂ったように暴れ出したかと思うと、次の瞬間、真夏のような気温の室内であるにもかかわらず、指先から血の気が引き、体中を猛烈な、暴力的なまでの寒気が突き抜けた。
「……っ、う、あ……」
ガタガタと歯が鳴り、全身の震えが止まらない。
視界が急速に狭くなり、椅子の背もたれに体を預けていることさえできなくなった。進は机の上にしがみつこうとしたが、そのまま力なく床へと崩れ落ち、意識を失った。
「もしもし! 大丈夫ですか!? 誰か、救急車を!」
静まり返った図書館に、周囲の学生たちの悲鳴が響き渡る。
幸いなことに、その日はたまたま夜の学習塾の仕事が休みの予定だった。
もし塾の授業中であれば、多くの生徒たちの前で取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。
近くにいた学生と職員が迅速に通報し、進は駆けつけた救急車によって、近くの病院へと緊急搬送された。
【白い病室、不器用な二人の歩幅】
「……気が付きましたか」
病院のベッドの上で進が目を覚ましたとき、視界に入ってきたのは、白い天井と、腕に繋がれた点滴の管、そして険しい表情をした医師の顔だった。
「過労、そして急性カフェイン中毒です。これだけ酷使された体に、短時間でこれほどの薬物を詰め込めば、心臓が止まってもおかしくなかったんですよ。あなたは自分の体を何だと思っているんですか。一歩間違えれば、命はなかった。いいですか、絶対に無理な服薬はやめなさい」
医師からの容赦のない厳重注意が、進の耳に重く突き刺さる。
己の無鉄砲さと、美智子を遺して死んでいったかもしれない恐怖に、進が呆然としていると、病室の扉が勢いよく開いた。
「進君……! 進君!」
そこに立っていたのは、連絡を受けて飛び出してきた、顔を真っ白にした美智子だった。
彼女の左手の薬指には、あの500円のリングがしっかりと嵌っている。
美智子は進のベッドの横にしがみつくと、人目も気にせず、手を激しくバタバタと泳がせながら大粒の涙を流した。
「よかった……生きててよかった……! 私、あなたが死んじゃったら、もうどうしていいか分からなくて……」
「ごめん、美智子さん……。心配をかけて、本当にごめん」
進は点滴の打たれていない方の手で、美智子の小さな、震える手をぎゅっと握りしめた。
自分が彼女を守るために段取りを組むと誓ったのに、これでは本末転倒だった。
慎之助や、美智子の父・道之が言っていた「責任」の重さを、進は自分の愚行によって改めて思い知らされていた。
点滴が終わり、体調が落ち着いた夕暮れ時。
二人は病院を後にして、帰路についた。
初夏の京都の夜風が、火照った進の身体に優しく吹き抜ける。
遠くで嵐電の踏切の音が、いつものように穏やかに響いていた。
二人はどちらからともなく、お互いの手をしっかりと繋ぎ合った。
美智子の手のひらの温もりが、進の冷え切っていた芯をじんわりと温めていく。
「進君」
美智子が、繋いだ手を少し強く握りしめながら、ハキハキとしたイントネーションで、けれど静かに言った。
「私ね、段取りも家事も下手くそだけど……進君が倒れるくらいなら、毎日焦げた魚でもいいから、私が何か作るよ。お弁当の販売だって、もっと頑張る。だから、もうあんな無茶な飲み方はしないで」
「うん……分かった。もう絶対にしないよ、美智子さん」
進は、隣を歩く彼女の小さな肩を抱き寄せた。
世間が言う「普通の夫婦」のように、男が完璧に働き、女が完璧に家事をこなすことなんて、自分たちにはできない。
けれど、倒れたときは手を引き、不器用なときは段取りを補い合う。
それが、二人が10年の放浪の末に見つけた、世界にたった一つだけの夫婦の形なのだ。
二人はゆっくりと、けれど一歩一歩、確かな足取りで、鳴滝の小さな灯火が待つ我が家へと歩いて帰っていった。
司法試験という巨大な山はまだそこにある。
けれど、繋いだ手の温もりがある限り、伊崎進はもう二度と、暗闇の中で自分を見失うことはないと、心の底から静かに誓っていた。




