第7章 2人の婚姻
【進のプロポーズと、二人の誓い】
美智子が東京での傷痕をすべて打ち明けたあの夜から、進の心は完全に決まっていた。
世間が求める「普通の夫婦」の形になれなくとも、段取りが下手なら自分が一生をかけてその隣で舵を取ればいい。
19歳の春、鶴橋の駅前で芽生えた覚悟は、10年の時を経て、誰にも揺るがせることができない大樹へと育っていた。
進はまず、長野の伯父・鹿沢慎之助へ再び電話をかけた。
美智子が抱える生きづらさ、そして自分が彼女の人生の段取りを共に背負っていく覚悟を、一文字一文字、嘘偽りなく伝えた。
進の並々ならぬ決意を聞いた慎之助は、しばらく沈黙した後、「……お前がそこまでの覚悟を決めたなら、もう何も言わん。二人で支え合って、お前の信じる道を歩みなさい」と、静かに了解してくれた。
さらに進は、岡山の上林道之に手紙を書いた。
美智子が外での仕事や家事に行き詰まってしまったこと、それでも自分には彼女が必要であり、生涯をかけて守り抜きたいという意志を洗いざらい説明した。
後日、道之から電話があった。
道之は、娘の不器用さをすべて受け入れた上でなお、真っ直ぐに自分を見つめてくる進の生真面目な瞳に深く打たれたとのことだった。
そして「美智子を、よろしく頼む」と、二人の結婚を涙ながらに認めてくれた。
「美智子さん、僕と結婚してください」
京都郊外の静かな部屋で、進はきちんと美智子に向き合い、その言葉を伝えた。
美智子は一瞬、息を呑んで手をバタバタと泳がせそうになったが、進の揺るぎない眼差しを受け止めると、溢れ出る涙を堪えながら「……はい。不器用だけど、よろしくお願いします」と、深く、深く頷いた。
しかし、父親たちと交わした約束通り、二人の門出には華やかな結婚式も、ロマンチックな新婚旅行もなかった。
今の進はまだ司法試験の受験生であり、経済的な余裕など一円たりともない。
ただ役所に婚姻届を提出するだけの、あまりにも質素な始まりだった。
【五百円のリング、天神祭の奇跡】
年の瀬も押し迫ったある冬の日。
進は、少し足を伸ばし、京都の北野天満宮へと出掛けた。
ちょうどその日は、毎月25日に行われる「天神市(天神祭)」の日にあたっていた。
境内へと続く参道には、師走の寒風が吹き荒れる中、古着や骨董品、露店がひしめき合い、大勢の参拝客でごった返していた。
冷たい空気の中に漂うたこ焼きやカステラの匂い。
全日制の受験生たちが合格祈願の絵馬を奉納するのを横目に、出納係の仕事で鍛えられた進の足は、境内の隅にある、古びたアクセサリーを並べた小さな露店の前で止まった。
色褪せたフェルトの上に、おもちゃのような安物の指輪が雑然と並んでいる。
進はその中から、一番シンプルで、美智子の細い指に合いそうな小さな銀色のリングを見つけ出した。
「おじさん、これ、いくらですか」
「ああ、それなら500円でいいよ」
進はポケットから、使い古された500円玉を一枚取り出し、露店の店主に手渡した。
給料のほとんどを生活費と書籍代に充てている進にとって、これが今の自分にできる、精一杯の「男の甲斐性」だった。
本物のプラチナでもなければ、ダイヤモンドも付いていない。
けれど、その小さな金属の輪には、困難を乗り越え、這いつくばって生きてきた男の、10年分の生真面目な血と汗がすべて凝縮されていた。
部屋に戻ると、美智子が寒さで少し顔を赤くしながら、進の帰りを待っていた。
「美智子さん、これ……」
進は、コートのポケットから、小さな紙包みを取り出した。
包みをほどくと、中から500円のチープなリングが顔を出す。
「式も、旅行も、本物の指輪も、今はまだ用意してあげられなくてごめん。これは、僕からの『仮の結婚指輪』だ。いつか、僕が必ずあの山を登りきって、一人前の男になったら、もっと立派なものを美智子さんの指にはめるから。だから、今はこれを、僕たちの約束の代わりに受け取ってほしい」
美智子は、進の手のひらの上にある500円のリングを見つめたまま、完全に言葉を失った。
「進君……」
美智子の瞳から、大粒の涙が次から次へと溢れ出し、白い頬を濡らした。
彼女は震える手でその安物のリングを取り上げると、愛おしそうに自分の左手の薬指へと差し込んだ。
サイズは、驚くほどぴったりだった。
「嬉しい…。私、世界中で今が一番幸せだよ」
美智子は泣きじゃくりながら、指輪をはめた手を胸元で固く抱きしめた。
東京の婚約者に「家庭のイメージが持てない」と捨てられ、何をやってもダメだと自分を責め続けてきた彼女にとって、この500円のリングは、どんな高級ブランドの宝石よりも価値のある、自分の存在を丸ごと肯定してくれる「愛の証明」だったのだ。
進は、泣き続ける美智子をそっと腕の中に抱き寄せた。
腕の中で小さく震える彼女の温もりを感じながら、進の胸の奥には、かつてないほど強固な、そして冷徹なまでの「法曹への執念」が満ちていた。
(待たせてごめん。でも、もう二度と、あなたを一人で泣かせたりはしない)
窓の外、鳴滝の夜空には、冷たくも美しい星々が瞬いていた。
遠くで響く嵐電の踏切の音が、二人のささやかな、けれど決して壊れることのない新しい生活の始まりを、静かに祝福しているようだった。
10年以上前に初めて出会った不器用な二人の運命は、平成の京都の底で、500円のリングと共に、新たなスタートラインに立ったのだった。




