第6章 進の決断
【京都の灯火、不器用な二人の誓い】
「あの人は何も悪くないの」
美智子はハンカチに顔を埋めて、嗚咽を漏らした。
「悪いのは全部、普通に生きることができない私なの。お父さんの言う通り、私が悪いの。伊崎君…私は、やっぱり誰かを不幸にするだけの、社会の余剰物なんだよ。お父さんとの約束も、守れそうにない……」
東京の婚約者が吐き捨てた、残酷なまでの正論。
それは、何をやっても上手くいかない美智子の心を、今でも深い泥沼の底に縛り付け、窒息させようとしていた。
しかし、その話を静かに聞き終えた進の瞳には、かつてないほど深く、そして強固な「生真面目な怒りと決意」が漲っていた。
進は、美智子の握りしめるその手を、自分の大きな手で上からそっと包み込んだ。
「美智子さん」
進の声は、静かだったが、驚くほど力強かった。
「その男の人は、美智子さんの『表面の要領の悪さ』しか見ていなかったんだよ。でも、僕は違う。僕は、美智子さんが定時制高校の四年間、どれほど過酷な女子寮のルールに耐えて、働きながら学校に通い続けていたかを知っている。東京で新聞配達や深夜のガードマンをして、ボロボロになりながらも、自分の力で生きようと必死にがんばった姿を知っている。……美智子さんは、決して怠けているわけじゃない。誰よりも生真面目に、命懸けで生きようとしているんだ」
進は美智子の目を真っ正面から見つめ、一文字ずつ言い含めるようにタメ口を紡いだ。
「家庭を築くイメージが持てないなら、持てないままでいい。世間が言う『普通の夫婦』や『普通の奥さん』の形に、僕たちの関係を無理に当てはめる必要なんて、どこにもないんだ。美智子さんが家事をできなくたって、ご飯を焦がしたって、僕が自分で作ればいいし、掃除だって僕がやればいいだけのことだよ。僕は、そんなことで美智子さんのことを嫌いになったりしない」
「伊崎君……」
「おじさんとの約束は、僕がもう一度頭を下げる。美智子さんは、美智子さんのままでいいんだ。段取りが下手なら、僕がこれから一生をかけて、美智子さんの隣で段取りを組むよ。そのために、僕は法律を学び、大人の力を身につけようとしてるんだから」
進の、衒いのない、魂の底からの生真面目な告白。
東京の婚約破棄という最悪の傷跡を、19歳のあの日から何一つ変わらない進の圧倒的な包容力が、今、完全に包み込み、癒していった。
美智子は進の胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。
平成8年の秋、嵐電の踏切の音が、鳴滝の静かな夜の底に優しく響き渡る。
世間から見れば、司法試験に落ち続ける不器用な男と、何をやっても続かない不器用な女。
けれど、この世界で誰一人として自分を理解してくれなかった二人が、今、鳴滝の小さなアパートで、完璧に噛み合っていた。
進は泣き続ける美智子の髪を優しく撫でながら、心の中で、次の5月の試験で、必ずやこの闇を切り裂く「合格」を掴み取ってみせると、それこそ狂おしいほどの執念を六法全書へと誓っていた。
幸せの形、結婚の形。
それは人それぞれだ。
進は美智子に言った。
「新婚旅行も結婚式もできない。それでも本当に良い?」
「いいの。一緒にいられるなら」
進は美智子を強く抱きしめた。
晩秋の風が、京都の夜を吹き抜けていった。




