第5章 繰り返される挫折、閉ざされた台所
【不器用な美智子の苦悩】
岡山の父親から提示された「自分のペースで働ける新しい仕事を見つける」という条件。
美智子はその言葉を胸に、今度こそ進の隣に立つ資格を得ようと、必死に京都の街で次の仕事を探し始めた。
しかし、現実はどこまでも冷酷だった。
戦場のような黎明大学の食堂を避けて、今度は静かに作業ができる個人経営のクリーニング店の受付や、小さな書店の品出し、ホテルの客室清掃といったアルバイトを次々と試してみた。
けれど、どこへ行ってもあの「見えない壁」が美智子の前に立ちはだかる。
クリーニング店では、預かった衣類のタグの仕分けと伝票の処理という二つの作業が重なるとパニックになり、番号を何度も間違えて店主から呆れられた。
書店では、棚ごとの分類の法則がどうしても頭の中で整理できず、本を全く違う棚へ配架してしまうという、ミスを連発した。
客室清掃でも、時間内に部屋を仕上げるための「段取り」がどうしても組めず、一部屋に人の三倍の時間をかけてしまい、短期間でクビを言い渡された。
(外で働くのがダメなら……せめて、家事をして支えたい)
外の社会に居場所を見つけられなくなった美智子は、せめて内側から進の司法試験の勉強を支えようと、部屋の掃除や、日々の料理を買って出ることにした。
だが、家事という営みこそ、実は最も「臨機応変な段取り」を要求される高度なマルチタスクだった。
美智子が台所に立つと、途端に部屋の中は混沌に包まれた。
味噌汁の出汁を引きながら、隣のコンロで魚を焼き、同時に野菜を切る。
その当たり前の同時進行が、彼女の脳内ではどうしても処理しきれなかった。
野菜を切ることに過度に集中してしまい、気づけば隣の鍋の味噌汁が激しく吹きこぼれ、コンロの火が消えている。
慌ててそれを拭おうとして、今度はグリルの中の魚を完全に黒焦げにしてしまう。
掃除を始めれば、引き出しの一箇所を整理するのに何時間も没頭してしまい、部屋全体はかえって足の踏み場もないほど散らかり放題になった。
「ごめんなさい、伊崎君……。また、上手くいかなくて……」
ある日の夕方。煙の立ち込める狭い台所で、黒焦げになった魚とお盆の上でひっくり返ったお椀を前に、美智子はボロボロと大粒の涙を流した。
せめて進に美味しいご飯を食べてほしかったのに、部屋を綺麗にしてあげたかったのに、自分の不器用さのせいで、かえって彼の貴重な勉強時間を奪い、部屋をめちゃくちゃにしてしまう。
進は、黙って台所の換気扇を回し、焦げた魚を皿に移すと、床に座り込んで泣きじゃくる美智子の肩を優しく抱き寄せた。
「いいんだよ、美智子さん。責めなくていい。……ゆっくり、話してごらん」
【東京の夜、砕け散った「普通の幸せ」】
美智子は、進の淹れてくれた温かいお茶のカップを、震える両手で固く握りしめた。
そして、これまで恥ずかしくて、情けなくて、誰にも、そして進にさえも詳しく語ることができなかった「東京での婚約破棄」の生々しい記憶を、堰を切ったようにぽつり、ぽつりと語り始めた。
「私ね……東京で深夜のガードマンをしてたときに出会った婚約者と、本当に結婚するつもりだったの。お互いの親にも挨拶して、狭いけれど新しいアパートを借りて、一緒に暮らし始めたんだよ」
美智子の目は、十年前の鶴橋駅前の公衆電話を見つめているかのように、遠く、暗かった。
「私、ちゃんとした『普通の奥さん』になろうって、すごく張り切ってた。あの人も優しくて、最初は『美智子は料理が苦手でも、一生懸命やってくれればそれでいいよ』って言ってくれてたの。でもね…暮らし始めて一ヶ月もしないうちに、あの人の顔から、どんどん笑顔が消えていったの」
当時の生活は、美智子にとって悪夢のような混乱の連続だった。
仕事から疲れて帰ってくる夫のために、夜7時に夕食を合わせようとする。
けれど、段取りが全く組めない美智子は、夕方の4時から台所に立っても、7時のチャイムが鳴るまでに一品も完成させることができなかった。
調理器具や調味料が足の踏み場もないほど床に散らばり、泥棒に入られたような台所の真ん中で、美智子はいつもパニックになって泣いていたという。
「洗濯物を干せば、ポケットの中身を確認し忘れてティッシュまみれにしてしまったり、ボタンのついた服を全部破きそうになったり……。掃除をすれば、あの人の大事な書類をどこかに仕舞い込んで失くしてしまったり。毎日、毎日、私は『普通のこと』が何一つできなくて、家の中をめちゃくちゃにしちゃったの」
婚約者の優しさは、少しずつ「冷淡な沈黙」へと変わり、やがてそれは「あきらめ」の混じった、張り詰めたイライラへと変わっていった。
「ある土曜日の朝、あの人が仕事に行こうとしたとき、私がまた鍵が見つからなくて玄関でバタバタしてたらね……あの人、すごく冷たい目で私を見て、こう言ったの」
美智子は声を詰まらせ、進から貰ったあの信州のハンカチをギュッと握りしめた。
『美智子。君さ、わざとやってるわけじゃないんだよね? 本気でやってるんだよね。……毎日、仕事から帰ってきて、この散らかった部屋と、何一つ段取りの進んでいない台所を見るのが、もう限界なんだ。君のことは好きだけど、君と一緒に生きていくのは、毎日地雷を踏みながら歩くみたいで疲れる。君とは、温かい家庭を築くイメージが全く持てないんだ』
それが、彼女の婚約が音を立てて砕け散った瞬間の、本当の理由だった。




