第3章 10年ぶりに会う美智子の父
【不器用な二人の約束】
アルバイトを辞めた日の夜。
美智子は、進の部屋で、ぽつんと座り込んでいた。
肩を小さく震わせているその姿は、10年前の鶴橋駅前で傷ついていたあの頃と、何も変わっていないように見えた。
進は、彼女の様子を見てすべてを察し、何も言わずに部屋の中へと招き入れた。
「……また、ダメだった。私、やっぱりどこに行っても、普通に働くことすらできない、ダメな人間なんだよ」
美智子は湯呑みを握りしめ、ボロボロと涙を流した。
「進君が定時制高校から黎明大学に入って、今も司法試験に向かってあんなに立派に頑張っているのに…私は、その大学の食堂の仕事さえ、まともに段取りよくできないの。こんな私が、あなたの側にいたら、また迷惑をかけちゃうよね……」
自己嫌悪に震える美智子の前に、進は静かに腰を下ろした。
進の脳裏には、鹿沢慎之助の『お前の勉強も中途半端になり、結果的にお嬢さんをまた不幸にする』という言葉が、重く響いていた。
けれど、進はここで彼女を突き放すことはしなかった。
なぜなら進自身、定時制高校の4年間、そして黎明大学の4年間、どれほど「要領が悪く、不器用で、周囲から遅れをとる苦しみ」を味わってきたか、身に染みて知っていたからだ。
それでも、人の何倍も工夫し、泥臭く這いつくばってここまで来たのだ。
進は、不器用な口調で、けれど一文字ずつ噛みしめるように言った。
「美智子さん。……責める必要なんて、どこにもないよ」
美智子が、涙に濡れた目を上げた。
「お昼の学食は、僕も知ってるけど、あそこは戦場みたいな場所だ。向き不向きが激しい仕事だし、美智子さんの良さが活きる場所じゃなかっただけだよ。段取りが下手なら、下手でもいい。時間がかかる仕事や、一つずつ自分のペースで進められる仕事だって、京都にはたくさんあるはずだ」
進は、机の上の分厚い六法全書をそっと愛おしそうになぞった。
「僕だって、この試験に何年も落ち続けて、世間から見れば、ずっと足踏みをしている不器用な男だ。僕たちは二人とも、要領よく生きられる人間じゃない。だからこそ、時間をかけて、少しずつ自分の居場所を作っていけばいいんだよ」
進の飾らない、しかし嘘のまったくない生真面目な言葉は、美智子の張り詰めていた心の氷を、ゆっくりと、優しく溶かしていった。
美智子は進の言葉に救われ、涙を拭いながら、小さく、何度も頷いた。
「うん……。私、諦めないよ。もう一度、自分に合う仕事を、ゆっくり探してみる」
嵐電の鳴滝駅の踏切の音が、夜の静寂の中に静かに響く。
まだ結婚という確かな約束を交わすことはできない、道半ばの二人。
それでも、お互いの不器用さを誰よりも理解し合い、支え合う二人の心は、平成の京都の夜の底で、かつてないほど固く、深く結びつき始めていた。
進は美智子の小さな横顔を見つめながら、彼女を守るためにも、次こそは必ずあの高い山を登りきってみせると、胸の中で静かに、けれど苛烈なまでの闘志を燃え上がらせていた。
【岡山の父と、嵐電の走る街】
美智子が黎明大学の食堂を辞めてからしばらく経ったある週末、進の部屋に、一本の電話が入った。
美智子の父親である上林道之が、娘の様子を確かめるために、わざわざ岡山から京都までやってくるというのだ。
かつて電話口で美智子を厳しく突き放した、厳格な父親。
進は、信州の鹿沢慎之助から言われた「責任と生活の基盤」という言葉を思い出し、背筋が伸びるような緊張感を覚えていた。
まだ司法試験の受験生でしかない自分は、彼女の父親の目にどう映るのだろうか。
当日、四条大宮の駅近くにある静かな喫茶店で、進と美智子は、長旅の疲れを滲ませた道之と向き合った。
道之は、白髪の混じった髪をきっちりと整え、いかにも昔気質の頑固そうな佇まいを崩さなかったが、進の顔を真っ正面から見つめた瞬間、その厳しい目元がわずかに和らいだ。
「……伊崎君、だったな。大きくなったが、あの時の面影がある」
道之の口から出た言葉に、進は驚いて目を見張った。
「え、僕のことを……?」
「忘れるわけがないだろう」
道之は深く椅子に腰掛け、静かに頷いた。
「十年前、美智子が鶴橋の駅前で君に助けを求めてきたあの時、君はまだ高校生だったのに、身体を張って美智子を助けてくれた。あの時の君の、真っ直ぐで嘘のない目は、今でも私の目に焼き付いているんだ」
道之は温かいお茶に口をつけ、それから美智子と進の顔を交互に見つめた。
美智子は緊張からか、膝の上で手を少しバタバタと泳がせていたが、道之はそんな娘を叱ることもなく、静かに言葉を続けた。
「美智子から、君が黎明大学を卒業して、今も京都で必死に司法試験の勉強を続けていると聞いた。……伊崎君。親バカな勝手な願いだとは分かっているが、私は、できれば美智子には君と結婚してほしいんだ」
「えっ……」
今度は進だけでなく、美智子も思わず息を呑んだ。
東京での婚約破棄の時に「お前が悪い」と突き放した父親から出た言葉。
「この子は、昔から要領が悪くてな。何をやっても長続きせず、東京でもボロボロになって戻ってきた。親の私でさえ、この子の不器用さには手を焼いてきたんだ。だが、そんな美智子が、十年間も君から貰ったハンカチだけを心の支えにして生きてきた。君という存在だけが、この子の人生の光なんだよ。だから、君のような一本気で誠実な男に、娘の生涯を託せるなら、親としてこれ以上の安心はない」
そこまで言うと、道之は少しだけ声を落とし、進の横顔を見つめた。
「ただ……君は今、人生のすべてを懸けて大きな試験に挑んでいる最中だ。美智子の存在が、君のその大事な勉強の邪魔になるようでは、あまりにも申し訳ない。それだけが、私の懸念なんだ」




